検地後の年貢制度の改革

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検地を機に、藩では年貢高の改定に相次いで、尾州領・濃州領村々並に米納を建前に旧来の木曽の年貢制度の見直しをし、これまで除地とされていた大部分は年貢徴集がされるように改められた。「木曽山」所収の享保九年の山村家留帳に尾張藩御国御用人から山村家あて一〇月二四日付の通達が掲げられて、それに詳細に述べられている。それによって概要を掲げると次のようである。
 ①村々に置かれていた山村家下代官の廃止。
 ②山村家と下代官に納めていた椀飯・ほかその他の納物は、百姓の痛みになるとして全廃された。
 ③木曽氏時代武功により先祖に下付されていた所有地は木曽谷中に二六ヵ所あり、無年貢地となっていたがすべて年貢付きの地とする。
 ④木曽一一宿の本陣・問屋役屋敷は無年貢地とされていたが、尾州領の宿並みに年貢地とする。しかし木曽路は通行が少なく経営困難であるから、年貢高の半分を米にて下付する。
 ⑤木曽谷中のうち竹藪のある村は、藪年貢代銀上納とする。
 ⑥福島の山村家の屋敷・中屋敷と、ほか村々にある家来屋敷地、妻籠宿御鷹方の御用小屋、村々の郷蔵敷地は無年貢地とする。
 ⑦木曽谷中百姓控山は、「百姓控山」の呼名を廃し村預けとして、今後木を必要とするときは山方役所に許可願を提出し許可制となる筈であるから無断伐り取ってはならない。
 ⑧寺社地については、木曽三ヶ寺である須原定勝寺、福島興禅寺・長福寺、宮越徳音寺、奈良井村法然寺、黒沢村御嶽大権現禰宜屋敷は、特別由緒ある寺社であるから無年貢地となる筈。そのほかの寺社地については、無年貢地の理由を申し立てているが、当時(検地当時)では取り上げることは出来ない。しかし寺社地のことであるから延宝五年(一六七七)寺社奉行に届出のある分については、検討の上後に考慮するとされた。
 寺社地については、一〇月二四日の通達に木曽谷中のすべての寺院の控地が遂一書上げられて除地の決定は保留になっている。山口村・馬籠村の分は次のとおりである。
 山口村光西寺
 境内二反一畝五歩
 従来年貢米は定納で米三斗六升ずつ上納してきたが、口米は上納しなかった。改革では本年貢を上納する以上、口米も上納すべきが当然であるとして、今後口米も上納することとされた。
 馬籠村永昌寺
 境内四畝二二歩
 外田畑一反七畝五歩
これは残らず無年貢地となる筈。
 諏訪神社、熊野神社禰(ね)宜兵蔵
 居屋敷六畝二〇歩
 外田畑一反四畝二六歩
これは残らず無年貢地とする筈。
 山口村光西寺の田畑は除地にならなかったので年貢地で書上げのとおりに決定された。寺社地の除地決定は山村家留書によると元文四年一二月二五日の御国御用人の通達によるようである。