検地後の山口村の年貢高

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検地によって享保九・一〇・一一年の三ヵ年間の平均年貢高をもって、同一一年より一九五石一斗八升五合となった。これに本年貢一石に付口米三升ずつが加算された。口米は検地前は一石四斗であったが、尾州・濃州領並みに三升とされたのである。しかし毎年の実上納高は一四八頁に掲げた年貢免状にみるように、その年々によって耕地に種々の引地(ひけち)(年貢免除される面積)があるから、その分だけ年貢高が上下するので一定はしていない。山口村の新田の検地は、寛延三年(一七五〇)と宝暦五年(一七五五)の二度だけである。新田分の年貢高は本田に比べてかなり低額であるが当初の査定のままで明治まで変わることがなかった。両年度の新田の内訳を掲げると次のとおりである。
 
 寛延三年より年貢米上納
 一反数三反六畝二五歩   山口村切起田畑
   内
    田方二畝一六歩   反当年貢高二斗
    此取米五升一合
    畑方三反四畝九歩  反当年貢高五升
    此取米一斗七升二合
    定納米二斗二升三合
 宝暦五年より年貢米上納
 一反数二反五畝八歩
   内
    田方三畝一歩   反当年貢高二斗
    此取米六升一合
    畑方二反二畝七歩
    此取米一斗一升二合
  合米一斗七升三合
 
 検地後の新田・畑は、検地前の田畑を本田とし、その反別に合計されず別条に記載され区別されている。
 検地後の山口村の年貢米上納の様子は、外垣庄屋の諸事書留帳(東京都徳川林政史研究所蔵、および名古屋市中央図書館蔵の筆写本)が、寛延三年(一七四九)より幕末に至る間のものとして大部分残されているのでこれによって知ることが出来る。またこれは山口村のまとまった江戸時代の資料としては唯一の文書でもある。これによって宝暦五年(一七五五)の年貢勘定書を掲げると次のとおりである。
 
 (本年貢分)
       覚
 一米百九十三石二斗五升六合  亥年山口村御年貢米定納
 一同二斗二升三合       去る申年(元文五)より切起田畑、御年貢米定納
 一同一斗七升三合       当亥年(宝暦五)より切起田畑、 御年貢米定納
  〆百九拾三石六斗五升二合
   内 六石         来子年(宝暦六)分庄屋給米に被下置頂戴仕候
     百四拾六石九斗八升九合五勺 金納
     代文金百六十三両一分ト銀四匁三分
                           但御値段金一両米九斗
                            銀両替六十匁
 残而 三十四石二斗二升    御蔵入有米
     此俵八十五俵二斗二升 但四斗入
 右之通私共御立合無相違御蔵入仕、急度預奉候、御蔵番等無油断相勤可申候
     宝暦五年亥十一月                 山口村庄屋両人、組頭四人連署
       鈴岡林左衛門殿
       上島 作助 殿
  (口米分)
       覚
 本年貢米百九十三石六斗五升二合
 一米五石一斗九合五勺六才    亥年山口村御年貢口米
  内四石四斗九合六勺八才五毛  金納
   代文金四両三分ト銀八匁九分八厘
   残而一石三斗一升二合七勺一才 御蔵入り     但御値段金一両米九斗替
                             銀両替六十匁
 右ハ当亥年山口村御年貢御口米上納仕、則御預リ申候、重々御指図次第指上可申候
     宝暦五年亥十一月                 山口村庄屋両人、組頭四人連署
       鈴岡林左衛門殿
       上島 作助 殿
 年貢米を上納するとその都度勘定方から村あてに受取が出された。宝暦五年の受取は次のとおりである。
 
       覚
 一文金百六十三両一分ト銀四匁三分    本年貢米代
 一同四両三分ト銀八匁九分八厘      口米代
 一文銀二十四匁八分四厘         藪代
 右は山口村当亥年御年貢米之内金納部分上納請取申候
 
 山口村年貢米上納状況を外垣庄屋諸留書帳から一覧表に掲げると第13表のとおりである。
(表)第13表 山口村年貢米上納状況(1)
(表)第13表 山口村年貢米上納状況(2)