検地前は木曽の大部分の村は木年貢を上納し、それの下用米が下付されていたから、実質的の年貢は土居・榑であった。元来木曽は水田が少なく畑作や焼畑に依存し、飯米は他地域から移入して補っていた。こうした土地柄であったから米納に切替えられても米穀の現物上納は不可能であった。木曽有数の米産地で米納をしてきた山口村も年貢高の増額により、米納しては飯米に不足するようになり、金納しなければならなくなった。
岩郷村では享保一二年に金納願を出しており、王滝村も同一八年の金納願がみられる。山口村には検地後から寛延二年(一七四九)までの年貢関係の文書が見当らないので確かなことはわからないが、寛延三年の外垣庄屋萬留帳に金納願がある。原文のまま掲げると次のとおりである。
乍恐奉願口上
一山口村惣百姓御願申上候は、当御年貢も出来兼申候ニ付、成合金納ニ仕度と御願申上候間、宜敷被仰付被下置候は難有奉存候、御値段之儀は被仰付次第ニ指上可申候、
右之通ニ御願申上候間、宜敷被為仰付被下置候は難有仕合ニ可奉存候以上
寛延三年午十月 山口村庄屋両人
組頭四人
御奉行所
右の文面に「当御年貢も出来兼申候ニ付、成合金納に仕度と」とあり、本年の年貢も出来るだけ金納にて上納するように願いたいと記しているから、他村と同様に検地後から大部分は金納で上納してきたことがわかる。年貢は米納が原則であるから、金納は願い出て許可を要したのである。年貢割付状は毎年一一月に発せられるから、その前月までに金納願を出し、福島役所勘定方から金納石数が割付された。年貢米の全部が金納とならないのは、庄屋給米・人足の扶持米・宿方の給付米など年貢米のうちから支給されることになっていたからである。これらを確保してなお残り米があったときは、村々の願いにより飯米に貸与された。
金納値段は毎年その年の米相場によって決められた。
山口村の金納状況を、外垣庄屋萬留帳(徳川林政史研究所蔵・木曽教育会蔵写本)によって一覧にすると次のとおりである。
(表)第14表 山口村年貢米の金納状況(1)
(表)第14表 山口村年貢米の金納状況(2)
(表)第14表 山口村年貢米の金納状況(3)
(表)第14表 山口村年貢米の金納状況(4)