享保九年の検地によって馬籠村の田畑は三七町九反二三歩と打出され、年貢米五二石九斗六升五合に査定されたが、九・一〇・一一年の平均年貢高による年貢米は六〇石余に増額した。検地後村内各所に新田の開発が進み、享保一五年・宝暦一二年・安永三年・文化七年にそれぞれの新田検地を受けている。大黒屋大脇兵右衛門の萬留帳によって馬籠村の享保検地後の新田畑を掲げると次のとおりである。
(表)
馬籠村には年貢免状・年貢勘定書とも残されていないので、累年の年貢上納の状況を知ることは出来ないが、大黒屋萬留帳に文化一三年(一八一六)の年貢免状の写しがある。これは馬籠村の年貢を知る唯一のものである。これによって検地前の本田、その後の前記新田の年貢上納高(文化一三年現在)の様子を一覧表にすると、次の第15表の通りである。これをみると本田・新田ともに災害による田畑の損耗が五町五反四歩引地になっている。それを差引くと四七町八反八畝一三歩となり、この年貢米高は八九石二斗五升になっている。年貢免状の末尾に
「右は其村御年貢米当子年より来ル辰年迄、五ケ年定免ニ被仰付候間庄屋組頭小百姓立合申分無之様ニ致割符毎歳極月五日迄急度可致皆済者也」とある。
(表)第15表 馬籠村年貢状況(文化13年年貢免状による)
馬籠村では年貢米のうちから、御伝馬給付米五〇石、庄屋給米三石、両問屋の地子金のうち半分が還元されていたが、これを差引いた三六石一斗三升一合を金納で上納した。この様子からみると馬籠村は、検地後は上納額の全部を金納していたとみられる。
木曽考続貂に「検地以後の木曽村々年貢高」がある。年号の記録はないが、山口村の数字からみると天保末年の書き上げではないかとみられる。
(表)第16表 検地以後の木曾村々の年貢高