木曽では中世木曽氏の時代に「よきやく」という制度があり江戸初期にも踏襲されていた。慶長一三年五月山村家が上松村・岩郷村にあてた置目(おきめ)(県史史料編巻六)に「よき役」がある。上松村の条には「三拾人よきやく、いにしえ一二人」、岩郷村の条には「拾五人よきやく、いにしえ九人」とあり、慶長一三年にはそれぞれ増人されていることがわかる。裏木曽三ヵ村にも尾張藩国奉行原田右衛門が寛永三・四年に達した山林関係文書に「斧役」の字句がみえ、「三か村斧役二九五丁」に木年貢の土居・榑が割り当られていることがわかる。また藩用・村用の勤を斧数三であれば、藩用二・村用一の割合をもって勤めるよう指示をしている。斧数の算定基礎がなにであるか明らかでないが、労働数によるものではないかとも思われる。しかし斧役のことは寛永初年に限られ、以後は消滅してすべて村高が基礎となっている。