公用の臨時急用飛脚のことで、単に「七里」といっている。木曽には古く中世から村役の七里があったようである。七里の名称の由来は明らかでないが、回状には「七里をもって差送り」と記してあるのがしばしば見受けられる。七里といえば公用急飛脚のことと一般に理解されていた。七里は村民の役で、宿村ごとに常に数人の七里役を定め、待機させておいていつでも間に合うようにしてあった。
尾張藩ほか数藩にも七里飛脚の制度があるが、これは藩の費用をもって七里役をおいて用を足しているもので、幕府の急用飛脚とも違うものである。公用の臨時飛脚という点では共通している。
村役の七里役はこれらのものとは別個のもので、藩用・山村家用・宿村用の公用臨時飛脚である。
七里について最も古い記録には「木曽古今沿革志」巻七中の「谷中雑件」に、慶長一一年三月二七日山村甚兵衛が贄川惣百中に出した手形に七里飛脚の「条」がみえる。
一勘左衛門・二郎右衛門事は向後町次に役の儀可申付候、善七郎・三七事も町次に相付候、乍然此両人は喜太郎用所とも申付候由にて候間、七里飛脚人足計用捨尤候、此外の役義は何も可申付候事
一七里飛脚迄をたをし町次の者石州様(大久保十兵衛長安)御泊の時米松迄取候に付て迷惑之由申上候、以来は相ゆるし候間仕間敷候、乍去御泊御用の儀手元つかえ滞候はゞ可為曲事候間、惣百姓相談にて万事の儀喜太郎得下知可申付事
また同一三年五月朔日三尾村肝煎・同百姓中に出した「定」のうちにも、七里のことがみえる。
一伝馬人足七里之儀、手形なくして壱人、壱疋成共相立候はゞ、肝煎、問屋可為曲事、但公儀よりの衆ニ候はゞ其時の時宜により可申付候事
一人馬・七里あたり番之者他行候はゞ、何程なり共相互の義に候間、あて越尤に候、未進重而可申付事
また信濃史料二一巻に所収(徳川林史研究所蔵)の慶長一六年四月二日、山村良安が上松村にあてた「定」のうちにも七里がみえる。
一七里ニて御通し之御状并御荷物共、村先ニて互に手形取置、以来御あらためも候ハゝ出し可申候事
右の文書によって、七里は村民の役であり、公用の書状や荷物の逓送をしていたことがわかる。
贄川村片平・梅沢部落の弘化三年の「足役調方」には、遠七里がみえる。これは藩用・山村家用の公用七里のことで、山村役所から宗門改・拝借米等の調査や、野火巣鷹・伝馬割合立合割等の節、奉行が出張する時の先触、回状や金・米の持送りなどの七里をいう。また飛七里の名称もみられる。特に急用を要する七里である。証文人馬の先触の日程が変更になったような場合飛七里で回状が宿次されている。飛七里は書状ばかりでなく、各村の巣山で幼鷹を巣下した場合、妻籠の御鷹役所(享保一五年からは藪原)に輸送するのであるが、この場合はいつも飛七里であった。
村七里は、村の事務用のもので、役銭の取集・米代金の持送り・奉行出張の際などに次の宿村まで荷物を運搬するのも七里の役であった。七里の役は本役人が勤めるのが普通であるが、幕末になると交通の人馬が増大して無足の者も加えて勤めるようになった。
七里は公用以外私用には用いられない。七里は役であるから無賃であるが、七里を勤めた者にはその村から勤務に応じて手当を支給する。この費用は村で負担するのである。この手当の額、支給の方法、勤め方は、各村々の各自の方法が村の申合規約に定められていた。
馬籠宿の七里役は、大黒屋大脇兵右衛門の「覚書」によると、伝馬役三〇人と歩行役四人の計三四人の者が兼役で勤めていたことがわかる。
一歩行役株 四人 但七里株也
一夏七里役株 一二人 峠九人、中のかや三人
一冬七里役株 一八人 御伝馬附也
右にみるように七里役は、夏と冬の二期に分かれて勤めるようになっているが、期間の割り方は宿により多少の違いがあったようである。馬籠宿では、夏役は三月より九月一杯、冬役は一〇月より二月までとしている。宮越宿では文化一二年(万年記)の記録によると次のようになっている。
七里役之儀は三月より八月迄六ケ月は、伝馬役・水役・町並無足役廻りに相勤申すべく、九月より二月迄六ケ月は伝馬役斗りにて廻りに相勤申すべく候
馬籠宿・宮越宿とも七里役は、ほかの諸役と兼役で回り(交代)に勤めており、単なる七里役はみえない。
馬籠宿の七里役の手当は次のようになっている。
一夏七里給金三分 一八人
但三月より九月限り
一冬七里給金二〆五百文 一九人
但十月より来二月迄、閏月これある節は一ケ月二百五十文増銭
一歩行役給金二分二朱 四人
但年内一人半役土地は給金三分也此訳十月より来二月迄七里三ツに一ツ相勤申候これによって二朱増銭
山口村の七里役の記録はほとんど見当らないが、天明三年四月村方から庄屋にあてた願書(宮下敬三氏蔵)のうちに、「御用通役の七里役の儀も外村とは事替り、六ヶ所へ持送り甚だ難渋仕候」とあり、七里役の難儀であることを訴えている。これは上松の木曽材木奉行所や藩の山方役人が田立山・裏木曽三ヵ村山に出入し、黍生(きびう)の渡しを通過するので、それに伴う文書や荷物の七里が多くなったためである。