農耕を業としない大工・木挽・鍛冶屋・畳職・桶職・黒鍬等の百姓以外の家業の者も多少はある。これらの者は無足として本役道の役は勤めないけれども、そのほかに職役としてその家業による役を勤めるのである。関所・番所・牢屋などの公の修覆・建替などの場合には、福島の山村役所の徴用に応じて出るのであるがこれらの作業に徴用されるのは、その工事場所の者、またはその近郷の者が実際の仕事に出役し、そのほかの者には、その費用・手間賃を谷中村々のその職にある者にその都度割当て職役銭として徴収するのである。従って徴収する職役銭の額は、その時の仕事の内容に応じて徴収されるので一定していない。
江戸後期以降になると職役銭の徴収文書が外垣庄屋の萬留帳に毎年見られるが、中期ころにはこれらの諸職の従事者も少なく仕事も少なかったようで、谷中村の仕事に他領の職人が入り込む事を山村役所で禁止して、木曽の諸職人の保護をしている様子がみられる。寛延四年(一七五一)閏六月、福島関所・黒川渡番所の修覆普請がされ、これまでの通り大工・木挽両職人に申し付られ、その職銭の割付が福島役所松井十太夫から触出され庄屋が集めて木曽の大工頭田中源吉に差し出す様に達している。山口村の職役銭は次のとおりである。
大工一人に付百七文宛、木挽一人に付八十五文宛、山口村大工権兵衛、木挽金六
右の通達の中に、谷中の大工・木挽の仕事に他領の職人の入込みは享保六年(一七二一)禁止され、谷中の職人の仕事は保護されているから、村の大工・木挽にその様に心得て置くようにと次のとおり申し渡している。
一、谷中一円に他領大工・木挽共に入込候事御停止に仰せ付られ候処、去年冬須原宿焼失に付他領大工・木挽共に入合普請仕り度候由、右村方より御役所え願これあり、此度焼失普請に限り両職の者入り込み候事御免仰せ付られ候、余の村の儀は享保六年十二月御停止に仰せ付られ候間、左様相心得罷り在り候様、その村々大工・木挽中之申渡えるべく候
天明八年正月七日福島関所・黒川渡番所の修復普請があり、前々のとおり大工・木挽の職役銭が仰せ付られ、大工取締役田中善吉から上松から下村に通知が出されている。(通知回状は福島より上と下に分けて出されるので、上村の事は当時ではわからない)この度の職役銭は大工一人に付二九文づつ、木挽一人に付二〇文づつであった。山口村・馬籠村の分は次のとおりであった。
(表)
なお右の天明八年の職役銭の徴集回状には、上松村から下村一五ヵ村の大工・木挽の名前が書上げられているから、これによって各村の大工・木挽の人数を一覧表にすると第18表のとおりである。
(表)第18表 寛政元年職役銭よりみた大工・木挽員数上松より田立まで
(表)安政二年(一八五五)山口村の職人数と職役銭
嘉永二年(一八四九)九月関白一条忠良の息女寿明(すめ)姫が一三代将軍徳川家定に嫁するため輿入れの大通行が木曽路を下向することになった。止宿や休息所に充てられた本陣・脇本陣・旅籠を修繕することになり、大工・杣・木挽・畳師・桶師など多数の職人を必要とした。村々にいる職人だけでは足らず遠くに出稼ぎに出ている者まで呼び戻されることになった。同年五月出稼中の職人を呼び戻し待機させるように次の通達が出された。
以廻状申入候
寿明君様御下向ニ付、宿々本陣・脇本陣并ニ旅籠屋等修復ニ付、当時旅稼ニ罷出居候大工・木挽・杣共等、早速呼戻村方ニ為控置、割符申付次第急度勤可申候、不及申候得共、右職人共村々ニ人別相分り居候事ニ付、不都合之取斗方有之上は、急度訂(ただ)可申付間其心得可在候、此廻状被見之上、村付下ニ庄屋印判押、早々順達納所より役所ヘ可戻者也
(嘉永二)
酉五月
右の通達を受けて村々から職種別人員の報告をしたが、役所の予定人員には達しなかったようである。六月八日再度の通達を出し、出稼中の者必ず呼び戻すように厳命し、同日一三日までに報告するよう命じている。山口村では次のように報告をした。
覚
一此節村方に居合申候 大工 嘉名蔵・作十・又吉 〆三人
右同断 木挽 和吉・甚助 〆二人
右之者共之外、地所稼ニ罷出候者壱人も無御座候、則其段先達木曽御材木御役所より御尋ニ付右之通書上候
右は村内大工木挽惣人別相達可申上旨奉畏候、右之外畳師、桶師壱人も無御座候、此段御達申上候以上