職人取締役

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江戸初期には専業の職人は、城下町に集中して職人町を形成していた。地方では大工は早くから見られるが、その他の職の者は城下町などから地方に出稼ぎをしていたようである。ときどきの文書に、農鍛冶は飛驒高山から、石工は高遠から出稼ぎの者が入ってきた様子がみえる。江戸中期ころから村々にも、農民から離れて専業の職業を持つ者も増加して領主の統制を受けるようになった。役を勤める者は年貢を上納する者ばかりでなく、職人にも職に応じた役が課せられるようになった。職役は公役であったから徴集された場合は、さきにみたように出稼に出て村を離れていても、呼び戻されて役を勤めなければならなかった。山村家が職種ごとに取締役を任命して統制をした。外垣庄屋萬留帳に大工・石工の取締役の通達がある。
                            福島向町石工冨弥
 右者今般石工職締方申付候間、自今他所職人入込候ハゝ前顕冨弥相断候上、令職業候様急度可申渡候、且右ニ付而は、富弥義廻村之義も可有之候間、休泊等差支無之様可取斗候
    (安政四)
    閏二月三日
 
 右は福島向町の石工富弥に石工取締方を任命したから、よそから石工職人が来た場合は、富弥に届出の上就業させよというのである。富弥が調査に村々を廻村することがあるから、宿泊・昼食の便宜を計るように申渡している。また左官職の取締を大工頭田中喜八郎に任命している。
 以廻状申入候、然は今般左官之者締のため頭役の儀願有之大工頭田中喜八郎へ被仰付候、就夫右職業いたし候者、人別取調候間、其心得可有之候ニ付ては、宿村右職之者有之候ハゝ、早速喜八郎方へ申出同人差図可請候(下略)
    覚
一廻状   壱通
右は今般左官職之者〆り役之者被仰候、就夫宿村右職業いたし候者并ニ入職之分共、同様取計可申候間左様承知可有之候、尤御廻状共、村付下印判押順達之上、納所より拙宅へ御戻可有之候以上
  (安政四)
 己四月二日                        田中 義太郎

左官職取締任命の通知状(安政4年外垣庄屋万留帳)