宿村に水役があったことは、記録にもみられ、それを勤める役人数が定まっていたことはわかるが、水役の本務・義務・権利についてはわからない点が多い。馬籠村には水役に関する記録は見当らないが、「木曽の村方の研究」には、水役について次のように述べている。
各宿とも水利が悪いので、飲料水を引いたり、また灌漑用水を引いたりするために、井水・樋・井堰等の普請・修繕などの仕事が多く、その役に出る者を水役といったと思われる。
元禄五年一一宿の水役人の調があるが、それ以後のものは見当らないことをみると、早くから有名無実のものとなり家格のようなものになり残っていたのではないかと思われる。「木曽の村方の研究」所載の元禄五年の調は、第19表のとおりである。このほか各村にも水役のあったことは、享保年中黒沢村に水役の者七軒、この人数二八人であったとされる。また田立村の記録に水役が家格となっていた様子がうかがわれる次の文書がある。
(表)第19表 水役調
(元禄5年)
(木曽の村方の研究より転載)
一、孫兵衛かの役家株、宝暦十三年願ニテ□(潰)シ、十蔵預り置申候重テ願候ハ、相立可申候
右之家株、水役致、十蔵より願出相立申候、宝暦十四年申、忠作に家株ゆづり申候、申二月相立候、
一、明和元年申十一月、吉蔵水役家株安兵衛えゆづり申候、嘉平地之内ニ相立候様願有之候、(田立村記録)
右によると、孫兵衛の家はつぶれたのでその家株を十蔵が預ったが、忠作に譲渡された。家株には水役も付随していたので、忠作の家株・水役として復旧したというのである。明和元年の条も同様に家株・水役が一体となっており家格になっていたことがわかる。