木曽は中世以来、木曽氏が領主であったが、天正一三年八月木曽義昌は豊臣秀吉に木曽を追われ、下総国阿知戸に移封された。秀吉は木曽を直轄地とし、犬山城主石川備前守を木曽代官に任じ支配させた。秀吉が木曽を直轄地としたのは、木曽が軍事上の要害である上に豊富な檜類の良材に恵まれた山林資源の地であったことはいうまでもない。秀吉の木曽山からの採材は、天正一三年の仙洞御所、同一四年に始まり一七年に完成した京都方広寺、同一五年の聚楽第・淀城などの大建築用材が搬出された。また文禄二年朝鮮役には船材に木曽材を用いている。
木曽材の伐り出しには伊勢・美濃・尾張の人々が従事した。搬出は諸大名の課役によった。木曽山からの採材が、いかに大がかりなものであったか、天正一七年木曽材の搬出を諸大名に命じた朱印状の人数をみてもうかがい知れる。参考までに一、二を掲げると次のとおりである。