江戸初期の木曽山の林材生産

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関が原役に大勝した家康は天下の実権を握ると、木曽を蔵入地として山村道祐を木曽代官に任じ、秀吉時代の制度を踏襲して山川一元の管理を任せたことは前述したとおりである。
 家康の美濃・木曽経営は、家康の代官大久保長安を頂点としてその指揮下に木曽代官山村氏、裏木曽代官遠山久兵衛、そのほか美濃代官岡田将監らによって進められた。
 江戸幕府の成立とともに、世は復興建設時代を迎え木曽山の建設用材生産は飛躍の一途をたどっていった。慶長一一年に始まる江戸城修覆、同一二年駿府築城材は美濃・信濃の諸大名の課役で搬出した。また同一五年に着手した名古屋城用材は、木曽代官山村甚兵衛、裏木曽三ヵ村代官遠山久兵衛ほか、信濃大名の役夫が主として立木の伐り出しを担当し、木曽川運材作業は東美濃の諸大名や美濃代官の課役として実施した。諸大名の所要材調達方法も自領農民の労役によって需要を賄うほかなかった。しかしこのような役仕出しには、負担の限界があったためおいおい商人の資本を導入し、更には農民の林材生産意識を刺激して、用材の供給不足を補う方策を講じなければならなかった。
 家康時代には、近隣の諸大名と木曽代官による御用木仕出、木曽住民の役木の生産を優先したが、当時の旺盛な木材需要に応じるためには、商人仕出や住民の御免白木の生産売木を規制することなく、むしろ奨励をした。慶長一六年四月、山村良安が谷中にあてた定書にもその様子がうかがわれる。
 一白木口留の儀前々の如く御役木調(ととのい)候ハヽ、則明べく候間御役木入精ニ急度仕上、手前の売木をも致べく候事
 一御用いつれの山にて木伐り仕り候時、たとへ奉行見落候共、川辺にて本切仕るべく候、若川辺を残し置候ハヽ成敗申べく候、能々入念申すべく候
 木曽の南北の贄川と妻籠に白木番所があり、御免手形のない白木の搬出は一切許可されなかった。谷中住民に許可されていた白木六〇〇〇駄の搬出も役木の上納が済むまでは番所の通過を禁止した。役木の完納に精を出すようにし、その後で御免白木の伐り出しにかかるよう申し渡している。これは当時の木材需要が増大し商人の売木が盛んであったから、住民が商人売木に走り役木の完納が遅れ勝であったのでその規制をしたものである。
 また御用木を本伐りするときには、先に川端を伐ってから奥に進むように申し渡している。これは伐り急ぐ余り場所の悪い川端の岸は危険を伴うので、残して場所のよい所ばかり伐り進むのを禁じたもので、当時の伐木が急を要していたことがうかがわれる。
 慶長一六年は名古屋城用材伐り出しの最盛期であり、この頃より元和期にかけて木曽山へ集中する用材需要は増大する一方で、幕府用材とそれに匹敵する商人仕出用材が盛んで、伐木時の木曽山には数千人に上る林業労務者が入山していた。御用木の採運だけでも美濃信濃の諸大名の課役に委せてはおけなくなり、生産責任者の木曽代官らは、その伐木採運労務者の調達に奔走しなくてはならなかった。元来木曽は開発の遅れた林業地であったので、慶長後半期のおびただしい採運労務者を地元で賄うことは出来ず、林業先進地である和泉・摂津・伊賀・伊勢方面から傭い入れなければならなかった。地元杣・日用が一本立ちの仕事が出来るようになるのは宝永から享保年代である。宝暦九年六月、「木曽山御材木仕法留書」(県史史料編巻六所収)中に、他国杣から地元杣に移行していく様子がわかる一文がある。原文のまま掲げると次の通りである。
一杣・小谷日用・持子・ほうじ
古来木曽表ニ面杣功者成者無之、伊勢・和泉より雇入申候、小物類ハ地杣も仕候由、宝永之比地山杣之内角板子作り候者も出来、追々地杣功者ニ相成候ニ付、享保年中ニ至り板子・角木等都而地杣ニ申付、他所杣不雇入筈ニ相成り申候
 その後も木曽山の用材生産には遠く他国から林業労務者を招致している。寛永五年二月江戸城造営材の採出に当り山村代官が例年木曽に招致していた上方杣の雇入れに赴いたところ、上方の材林商が先に雇入れてしまっていたので、木曽に来る杣がいなかった。このことを尾張藩老成瀬隼人正に報知したところ、江戸城御用木を延引することは出来ないから、出費の嵩むことにかまわず杣夫を探すよう命じた。このため山村家の役人は遠く中国・四国まで赴いて、どうにか作業に着手出来る程度の人員を手配したが、これでは充分でないから予定採材地の滝越山を、巣山に切換えなければならないと、山村代官は藩老に申し送っている。巣山での採材は許可されるものではなかったが、こうまで申達しなければならなかった山村代官の苦慮の様子が知れる。
 また宝永六年(一七〇九)の自序のある貝原益軒の「岐蘇路之記巻三」に「材木を伐る杣人は尾州表より和泉・紀伊国・近江の人を傭いて遣わさる。毎年春の雪消二・三月に入りて十月に出る。およそ幾千人ということを知らず」とある。宝永五年には檜類五木が停止木となり、年貢木の採材も困難となり、尽山の様相がみえる時代であるが、なお山には数千人の山林労務者が入山していたことを伝えている。
 近世初頭の用材生産は、輸送に便利な白木類が主流であったが、慶長期には京都の豪商角倉(すみのくら)了以が家康に取り入り諸川の開発をして長大材の輸送を可能にした。角倉は木曽・裏木曽の木年貢・御免白木の買取りを一手に引請けている。山口の対岸川上川河口に「角倉渡」の地名を残している。角倉は家康に山林開発の功績を賞されて、木曽山において年々白木三万梴、裏木曽山にて一万梃の扶持を与えられていた。そのほか岐阜の中島両以・犬山の長蔵ら有力商人も台頭した。
 慶長から元和期は、諸国において築城造営、城下街造りの最盛期で、木曽の檜の商品価値は高まり、商人の買漁りも盛んになって濫伐につぐ濫伐が行われた。このため木曽山は本谷筋を奥へと伐り進んだ。裏木曽の川上山では慶長一五年に始まる名古屋城の築城材は口山の長根山から伐り出しているが、寛永の初年には早くも本谷の奥まで伐り進んでいることをみても、伐木攻勢がいかにすさまじいものであったかわかる。このため無尽蔵とまでいわれた木曽の山林資源も、次第に減少して衰退の一途をたどり、搬出の便利な川沿いの山々は尽山に傾いていったが、木材需要は少しも衰えず益々上昇する傾向にあった。
 これまで住民は、年貢木・御免白木・家作材など、所々の山林から自由に採取し山林用益を自由に得ていた。このような状態から尾張藩では、今後の山林資源保続のため伐木規制の必要に迫られていた。