裏木曽山の伐木規制

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尾張藩の山林規制の初見と思われるものが、裏木曽山にみられる。尾張藩の国奉行で材木奉行を兼ねた原田右衛門は、寛永三・四年に裏木曽山を対象に林材統制をし、裏木曽三ヵ村の山方支配の付知村庄屋に数通の指令を発している。寛永四年五月一六日付の文書をみると、同年上納の年貢役木の数量を告示したあとへ「右のほか、この地より指図なき御材木伐らせ申しまじく候、若おして伐り候ハヽ御意を得成敗いたすべく候、又所々の百姓は、御用木に立ち申さず候雑木の儀はうらせ申すべく候、それも此方よりの奉行に見せ申すべく候、かくし売りは曲事に申し付べく候」と申し渡し、原田よりの指示以外の材木の伐り出しを禁じ、在地の百姓の売木は御用木にならない雑木は認めるが、これも奉行の許可を得た上でなければならないと命じている。
 同年五月二六日の書状には次のように命じている。
 1 違反者が出たならば庄屋の責任であるとし、材木の御法度札を立て、番屋を設けて番をすること。
 2 御法度に背いて木を売った者は成敗する。
 3 役木の土居・榑には村ごとに刻印を打って渡すこと。
 4 角倉はもとより他国の材木商は一人も置いてはならない。売木したことがわかったら成敗する。
 5 山の儀はその村の庄屋に預けるから、違背する者が出たら庄屋の責任とする。
 右にみるように山の管理を村預けとし、庄屋の責任としている。以降裏木曽では江戸時代を通じ、三浦山・三ヵ村内の山の管理を、三ヵ村で分担した。この指令のうちに、角倉を始め他国の材木商を締め出し、買漁りを封じ込める強行策を断行しているが、家康以来寵(ちょう)遇をうけ木曽山に勢力を持った角倉を追放したことは随分思いきったことであり、原田の決意がうかがわれる。しかしこの政策に反感をもつ他国材木商の画策によって、原田は失脚し寛永六年切腹を命ぜられ一家断絶した。