寛永二一年一二月一五日尾張藩年寄衆は、山村家に指令して本谷筋に残る美林地帯において白木類(年貢役木・御免白木)を採取することを止めさせるとともに、それに該当する山々を報告するよう命じた。これに対し山村家は、上松小川山の内三ヵ所をはじめ、都合一四ヵ所の山の名を書き上げている。王滝村留帳によると次のとおりである。
覚
一上松小川山の内 小川灰沢、いた橋、沢あし島
一萩原山内 正沢、こけ橋沢
一須原山内 いな川、小川
一野尻阿寺山内 あてら沢
一みどの山 与川
一柿其山内 いぐい川
一妻籠山
一田立山
一湯舟沢山
但、此山々之義ハ土居・榑御役木出し申さず筈
右之書付寛永廿一申十二月十五日に寺尾左馬助殿ト井沢藤右衛門・今川古兵衛御使ニて書上げられ候事、
右の山々はいずれも檜の林相の勝れた山であり、これらの山で採取を制限した事は、良大木の保護策を前進させたものであった。