木曽は関が原役後家康の蔵入地となり、山村家が代官に任ぜられ山林・村方行政ともに山村家の支配に委ねられてきた。関が原役より六〇余年を経た寛文初年になると、慶長・元和以来続いた過濫伐によって、無尽蔵とまでいわれた山林資源もその半ばを失い、将来の恒久的財源とするためには、藩としてもなんらかの方策を講じなければならない状態にたち至っていた。
寛文三年八月木曽川増水の時、苗木領に漂着した用材を苗木藩で取り上げてしまうという事件があった。この運材を請負った商人達が、この事件を藩庁に訴え出た。当時は山元・運材の管理は山村氏の支配であり、その監護の責任は山村にあった。藩庁ではこの訴えを受け取ったが、すべて山村代官に一任してあり、木曽の事情が明らかでなかったためにその処置に困惑した。このことがあって後、木曽山材を藩の統制下におき将来の山林政策を定める上にも木曽の事情を調査しておくことが必要になった。同四年六月佐藤半太夫ほか五名の奉行を木曽谷中に派遣し巡見させた。これが木曽第一回の巡見である。この後幕末までに計一〇回の巡見を行い、その結果山林経営の施策の方針を定めた。