木曽山巡見の記録

606 ~ 610 / 667ページ
木曽山巡見の記録は「王滝村庄屋松原家の記録」(王滝村誌)、裏木曽川上村庄屋文書にみられる。これらの資料によって巡見の様子を掲げると次のようである。
(表)
 木曽山巡見は右に見るように、江戸時代を通じて一〇回実施されている。一〇回目の巡見役人の木曽入込みに付いて「外垣庄屋萬留帳」と「大黒屋日記」に記録があるから参考までに掲げると次のとおりである。
 万延元年九月三日付福島役所から回状で次の先触が回っている。
 回状を以て申し入れ候、然ば今度尾州より木曽宿村御巡見御役の御入込に付、所々において掃除等は勿論地走ケ間敷義一切無用にいたし、無益の人馬差し出さず、惣て所々の痛に相成ず様心得なし、音物(いんもつ)(進物・賄賂)等一切無用に致し、案内の者入用の所は断りこれあり次第これを出し、尤大勢指し出し間敷并に御巡見の輩休泊等にて調物等その所の値段にて取扱うべく旨、此段木曽谷中へ相触候様、尾州より御越され候間、右の通り相心得申すべく候、此廻状披見承知の上、村付下庄屋印判押し早々順達納所より差し戻すべく者也
    九月三日                     福島役所役人二名連名
  此御廻状九月六日夕湯舟沢より受取、早刻田立へ継立申候
右の廻状では巡見役人来村について、儀礼的なことは一切無用と達している。
 同月一一日の回状では、巡見役人の昼支度・宿泊等に要した品々は、支払いされることになっているからその村の値段にて勘定し受け取るよう尾州表から通知があったから承知するように達している。
 また巡見役人の出迎え、村継は御定めのとおりでよいと達している。
 一巡見役人が村入り込みについては、村役人のうち二名が村境に出迎え案内する事。
 一継場所において証文人足四六人、馬二匹を準備しておく事。
 一宿泊の村々において宿共、御定の支度上下二九人分の準備を致しておく事。
 一通行の道筋において干物いたしおくもの、通行の障にならなければ取り片付けなくともよい。
 巡見役人は七名であるが、下役・供があるから同勢は二九人になっている。それに役人が道中するときには、それぞれの身分・格式に定められた武具・分持・長持・用簞笥・雨具などの持物、弁当・駕籠などがあったからこれに要する人足・馬は、証文人馬(無料使用許可証)によって、村々で調達された。この道中では証文人足四六人、馬二疋となっている。
 大黒屋日誌(第二一番安政七年)に、右の巡見記録がある。これによると巡見役人一行は谷中の奥より下へと巡見したことがわかる。
 九月七日曇天気 尾州より御領分中御廻村に付、御勘定御奉行様始め夫々御役人衆様、当六日名古屋御出立内々御役所(山村家役所)へ御知らせに付、原彦八郎様御下役大沢紋之亟殿付添い今夕当宿御泊り諸事承り役に御出張遊ばされ候趣、御触至来にこれあり候
 九月二八日天気 御巡見御奉行様方妻籠宿御泊りに付、茂太夫殿(問屋)三次郎両人御伺に罷り出で候
      茂太夫・三次郎殿夜八ツ時御用済に付帰宅。
 九月二九日天気 尾州御役人様方奥筋御取調至って六かしく、宿七人(巡見役人)共殊の外厳重御吟味御調に付手間取候趣、依て今晩当宿御泊りの御触にこれあり候処、今朝妻籠宿御調にて当村へ御出張遊ばされ御用済、妻籠宿へ御引取に相成、明後日当村へ御入込の趣出役茂太夫・三次郎より承知いたし申候、
      右に付当方も夫々取調置候処、模様承り候に付又々下調に取懸り申候、
 九月晦日天気快晴 尾州御役人様方当宿御小休にて湯舟沢村へ御越遊ばされ、御調相済当宿へ御帰り御止宿遊ばされ候
 十月朔日雨降り 右御役人様方当宿御調済に相成り、昼時御出立山口村御泊り御越遊ばされ候
 二日朝田立村へ入り、当日田立村泊り、三日裏木曽川上村に向かっている。この様子からみると、宿の取り調べが厳重であり、宿のない村方は簡単に済んでいるようである。
 木曽谷中の巡見は、この第一〇回の巡見を最後にして以降は行われなかった。