その後享保の林政改革促進のために、同九年福島上の段に設けられた「立合役所」に併合されたが、元文年改革の成果がほぼ達成されたとして立合役所は解散し、再び上松の元の場所に戻り、金三一三両の工事費をもって敷地・建物とも拡張して、木曽材木奉行所と改称した。山下生六氏の調査によると、その規模は南北六五間、東西五五間、敷地三五〇〇坪、周囲を長さ二間二尺の丸太で芝土手を築き回した。建物は玄関付きの奉行屋敷があり、玄関脇の部屋には本〆より選出された内詰が詰めていた。東長屋は二間に六間半で同心二名が詰め、六日ごとに交替した。奥長屋は三間に二〇間の細長い建物で六部屋があり、西の方から吟味役・調べ役目代台所入口を挟んで本〆山手代の御用部屋があった。玄関には葵の金紋をつけ、屋外には大砲を据え、屋内には数十挺の鉄砲を並べて、尾張藩の威容を誇示していたという。元文五年の機構改正からは奉行定員三名となり、うち一人は錦織奉行兼任であった。奉行の下に吟味役二人が、奉行代として山方の業務に当っていた。その下に調役が二人会計を担当していた。以上が士分である。その下に目代手代七人、手代一〇人、同心一〇人、同心見習二人、山手代一〇人がいて伐木運材の現場業務に当っていた。同心は「御鉄砲組」といって材木川狩中川筋を巡回し、盗木の監視に当り一種の警察権をもっていた。享保後の伐木は、藩直轄で行い伐木山には会所が設けられて木曽材木奉行所の役人が詰め、「尾張藩御用」の旗を揚げていた。
木曽材木奉行所(東京都徳川林政史研究所蔵)