大川狩

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木曽山で伐採された材木は、山落しによって小谷筋まで搬出され、谷筋の水力を利用して木曽川本流まで狩り出して来るのである。これを小谷狩という。大川狩は岩郷村川合渡(木曽福島地内)より、美濃国加茂郡錦津村の錦織の綱場まで約二〇余里を「管流」して狩り下げたのである。昔は川合渡より上流は荻曽川といい、王滝川と荻曽川の合流点を川合渡といい、それより下流を木曽川と呼んだのである。川狩詞では荻曽川も王滝川も、木曽川の支流である伊奈川と同じように「小谷」と唱えられていた。そして本谷は山の奥へ入り込んでいる谷の最も水の太い方を指し、水の少ない方を小谷といった。
 木曽山で伐採の始まるのは、八十八夜(五月の一、二日ころ)前後で、八月の終りころには伐採を打切って「斧留」を行ない一〇月の中過ぎには山落しを終り、一一月の中旬までに小谷狩りを終えて、大川狩が始まった。毎年秋ともなれば木曽川べりから独特の悠長な木やり音頭が聞こえてきた。木曽節といわれて世に宣伝された「木曽の仲乗りさん」の民謡を始めとし、横手節、とより節、須原節、風流踊節等数々の民謡が、こうした中に生まれ育ってきたのである。「仲乗りさん」も丸太一本で急流を乗り下し、両岸から鳶のとどかぬ川の中の狩り木をはずして狩り下げた勇壮な離れ業をほめたたえるところから出たものとの説もあり、日用のうち特に技術のすぐれた者がこれに乗り、堰の滝、修羅なども乗り下したのである。後に小桴に乗り木尻に添って川の中の掛り木をはずして狩り下げた「乗人」も仲乗りさんと呼んだという。
 翌年立春(二月始め)までには最後の材木が錦織湊に到着した。木曽山で伐木造材から大川狩が終了し、錦織湊到着まで二九〇日を要した。錦織湊で筏に組み熱田湊まで筏輸送をした。