大川狩と山口村

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木曽川は田立村境までは木曽の地内を流れるが、山口村に入ると対岸は苗木領坂下村になる。このため木曽川運材上にいろいろと厄介な問題が生じてくる。田立村境から円明の巻、猿鼻等の難所があった。現在関西電力賎母発電所の川辺は急流で曲折し深渕をなしており、川狩人夫がたびたび溺死する危険な難所であった。寛保二年八月二八日尾張藩は危険防止を願い右の場所に不動尊像を安置して安全祈願をした。このほか山口地内の川辺りには危険な場所が多く三か所に祀られていたといわれているが、現存するものは賎母一ケ所だけである。
 山口地内には運材上の施設として留木の杭所が馬小屋(坂下村和合河原)、黍生(きびう)・青木・河原田の四ケ所にあり木中回し小屋、雨小屋が設けられていた。幕末には一〇ケ所ある。山口川並番所があり、黍生には一時期であるが綱場もあった。これらの施設には村民が出役を勤めてきた。大川狩と村民のかかわりは、極めて深かった。これらの事情を知るためには、大川狩の運材施設や運材装置の用語を知る必要があるので宝暦九年木曽山材木仕法留書(県史史料編巻六所収)、寛政三年大川狩仕法書(木曽山林をめぐる歴史・北沢啓司著)などに、用語等の解説があるから抄出して掲げると次のようである(以下寛政三年大川狩仕法書による)。
 ○修羅・堰・中戸掛り・大多牟波(たんぼ)・大川狩は小谷狩に比べ水量は多いが浅瀬や巨岩があり、岩の間を曲りくねって木材が流れるには、それぞれに障害があった。木材の自然流下を妨げるところには修羅を設け、木材が痛まぬ様にし、浅瀬には堰を設けた。
   川の中の岩に木材が掛るのを「中戸掛り」といい、これは対岸から鳶がとどかぬので小桴に乗ってこれをはずしたのである。
   また木材が中戸の岩に横にかかることを「多牟波(たんぼ)打つ」といって、小桴等で取りはずしが間に合わない場合は、次から次と流れ来る材が水圧で入り組み、折重なり「大多牟波」となるのである。多牟波が生じた場合は、大多牟波にならぬ様に、水上で流下材を抑留するために「掀(はね)橋」を設けた。この掀橋は水流が緩やかで渕が広く、なるべく多数の木材を抑留することの出来る場所を選んで造られた。
 ○ユハリ・重綱 川の中の岩の間に木材が従横に突き込むことを「ユハリ」といったが、このユハリは狩出しが困難で後から多くの労力がいるので、これを防ぐためにそのような個所は「械(かせ)」をさしてユハリにならぬ様にした。械はその場所によって構造が異なり、「登り械」「下り械」の二種類があった。
   川の分岐する個所で木材が通路外に流入するのを防ぐため、綱に浮木を添結して張った。この場合綱を強固にするために数個の中枠を入れることもあった。また川の中には流水が渦を巻いていて木材が一度この中に入ると容易に出すことが出来ない。こうした所には上流の適当な位置に綱を結び付けて、他の一端は自然に流し、適宜浮木を綱に添結して木材の渦に入るのを防いだ。これを「垂綱」といった。大川狩には様々の運材装置を必要とした。
 ○吹込み・沈木・小桴・鴨桴 渕の底の岩間に突き込んだ木材が水面に現れないことを「吹込み」といい、浮かばず水底の泥の中に居付いてしまうのを沈木といったが、沈木にすることは厳に戒められていた。「吹込み」「多牟波」「ユハリ則矢」(岩に矢を射込んだように立った材)などをはずして狩下げるため「小桴」「鴨桴」等が用いられた。小桴は両岸から鳶のとどかぬ川の中の掛り木をはずして狩り流すためのもので「鍋蓋」ともいい、木数はおよそ一二、三本で長さ五尺五寸・幅五尺に作られ藤つるで編んで、その形は四角になるように小さく作られた。これに乗る者は水泳の達者な者でないと勤まらなかったので、「乗人」といい一〇人中に一人か二人しかいなかったそうである。小桴は大川狩定法書によると野尻から上流の山の分は、上松村小川入りの小路でつくり、三留野から下流の分は田立か山口で作るようにすることになっていた。

小桴

  「鴨桴」は、六、七寸角の二間材を五、六本藤づるをもって結び合せ、小桴と同じように木尻に添って掛り木をはずして狩り下げ、また日用人夫の川越にも用いた。桴乗りは、始めは越前の者を雇ったということであるが、そのうちに追々木曽の人々にも見習い巧者の者が出来た。また水に不鍛錬な者は「岡狩り」といって、岸から長鳶を使い狩り下げた。
 ○三簀(みす)乗り 鴨筏・小筏のほか特殊な場合に用いられる「三簀」がある。三簀は、長さ五尺五寸位の小物七〇挺位を三継にして、幅一間に長さ三間程に藤つるで編んで作った筏の一種で、その姿が簀(葦(あし)・篠竹・割竹などを編んだもの)に似ており、三継にしているから三簀と呼んだといわれる。大川狩定法書には「御簾乗り」となっているが、山口村外垣庄屋萬留帳寛政九年二月二五日に、「村方より願申候に川狩三簀乗り宿只今ハ云々」とあり「三簀乗り」と記しているから、これによることにする。三簀の真中に六、七尺の真木を立て、その真木より四隅へ綱を張り、あと先に梶を立てて乗るときは梶取二人が瀬にのぞんで大石の間を梶であしらい乍ら乗り下げたのである。これは山口湊から錦織湊の間で両岸が切り立っていて険しく、川に沿って通行出来ない所で川狩役人が乗るために作られたものである。三乗りのうち一乗を田立、山口のうちで作り、二乗りは落合宿下落合で仕立てた。山口で三簀乗りの宿は最初は野瀬(朝倉宅)が指定宿になっていたが寛政九年後は希望する家を回して宿するようになった。
 ○杭場・綱場・綱株・娵(よめ)綱・袋綱・綱掛代
   山口湊・錦織湊其外所々の川の曲直を見立、懸り木の便宜所々に杭木を立、出水の節押出木を狩り入れ、又はおのずから懸り木出来候を杭場と申候
 ○錦織湊常々大綱懸り申候、木曽川御林木大川狩の節は山口湊にも御綱掛り申候、或は飛驒川筋大川狩仕り候得ば下麻生湊に御綱かけ申候、其綱掛け候所をさして綱場と申候、又綱を結付候岩、或は大木を綱株と申候、
  右大綱を張り渡し、細き綱にて幾筋も控を取り候を娵綱と申候、又大綱にかかり候材木を狩り入候所に、ゆるく綱を掛ケ候て袋綱と唱え申候
 ○或は小物大川狩の時、今日いずれの所にて狩り付けべくと、其水が減によって是を量り竹或は藤をもって大川に綱を引き渡し、爰(ここ)にて木先をとどめ程ように仕候、右綱かけ候場所は水押しのゆるやかな双方綱を結び付け候、大木・大石等これある所を見立て、前々より綱場と唱え候
 ○又出水の節流木下り候材木を河原へ引揚げ候を留木と申候、其後の節渡入り仕候を一つに相唱え留木下しと申候是は大川狩の節村々出人足河原え罷り出で留下し仕、川狩請負の者より賃銭差遣申候
 ○大川狩過不足
  山口又は錦織湊へ御材木狩着木数相改め、小谷再数と引合せ不足仕候得ば、大川不足と申候、是は川狩の内、出水流木吹込にて不足相立申候、又水塩宜し時分小谷再数を引合せ、過御座候儀も御座候、是は出水にて山本の押出候木、或は吹出し候木にて過木に成り申候