木曽川合渡から錦織湊まで約八四キロメートルの大川狩には約九〇日を要した。この行程のうちには、右の大川狩定法書にみるように流材を阻む難所や出水による流失木防止の装置や施設を必要とした。木曽川は田立までは木曽のうちであるが、山口からは苗木領・岩村領・旗本領など他領を通過するので、盗難防止の取締りのため同心が七五人も川筋を巡回し警戒に当った。大川狩ではこれらの輸送事業を円滑に実行する必要上、川筋のそれぞれの場所を標示するために「瀬付名」といって、○○瀬・○○釜・○○巻・○○渡と名を付け、事業工程も事故発生の位置もすべて瀬付名を用いた。瀬付名は川合渡より錦織湊までの間に三一四ケ所あり、瀬のうちで特に難所、川五仮小屋のある所、川狩宿、綱場特に盗難の用心を要する所、番所、棚等を詳細に記した便覧を作って川狩に従事する者の便に供した。現存する便覧のうちには、種々のものがあり「表題」も内容も一様ではない。本村の楯庄屋所有の次の帳が現存している。
表紙「文政弐卯正月吉日
木曽川合渡ゟ錦織迄川丈案内帳
楯藤十郎控」 (山口村役場蔵)
木曽川合渡より錦織まで川丈案内帳(山口村役場蔵)
川合渡より錦織湊の間に瀬付名は三一四ケ所あるとされるが、右の帳では三〇四所にになっている。このうち山口村地内の瀬付名は二七ケ所がある。山口村地内の瀬付名を抄出して掲げると次頁のとおりである。
山口村地内の瀬付名