山口川並番所・杭場・綱場・雨小屋

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山口村には川並番所・杭所・綱場・雨小屋などが置かれていたが、これらの施設は藩の林業政策の変動に伴って、幾度か改廃が繰り返されているので、その様子についてみてみたい。初めて設置されたのは「山口村青木ニ御留并雨乞石ニ乱杭御立被遊候覚」(享保八年楯藤十郎控)によると、杭所・番所の設置は貞享元年(一六八四)が最初であることがわかる。その後藩の林政施行と相まって、幾度か変革を繰り返していることがわかる。この「覚」は庄屋楯藤十郎の手記で享保八年(一七二三)までの経緯が記録されている。
順を追ってみると次のようになる。
①青木・雨乞石の杭場 貞享元年四月に青木河原と雨乞石に杭場が設置された。ときの上松材木奉行は中村利助であった。上松材木奉行所から「御手代」福田新太左衛門らが出張して滞在し工事監督に当った。
                         御手代    福田新太左衛門
                               草履取  長八
                               槍持  
盛右衛門
                         五十人御目付 江原源助
                               御押  
弥藤次
                         御足軽衆   宇野彦七
                                留田市兵衛
                                谷小右衛門
                                客矢  善六
                         御川狩御元締 守川三右衛門
                                志水喜左衛門
 四月一〇日に着工、同月二五日に完成した。
 翌五月出水により乱杭損じ、守川三右衛門が出張して破損箇所の普請が行われた。
 同五月再び損じたので志水喜左衛門が出張して、防護の枠組を設け普請した。この日用人足一〇〇人余、日数二一日間を要した。
②青木番所 貞享元年七月二五日福島役所宮川善左衛門・田中善兵衛両人が来村し、青木の御留杭と雨乞石乱杭に通じる道筋の畑に番所屋敷地の検地を行い、番所が建てられた。
③青木の杭場角倉渡場に移転 貞享四年六月一六日、三〇年来の洪水にて青木の留杭場が崩壊してしまったので、対岸の坂下角倉渡(ど)場(川上川河口)へ杭場を移転し、七月四日から二六日にかけて普請が行われた。上松材木奉行所手代中次勘六、板津勘右衛門、大矢彦左衛門らが工事監督に当った。
④番所・杭場廃止 元禄四年(一六九一)一一月五日、角倉渡杭場・雨乞石杭場・青木番所とも廃止になり、番所奉行今村伝七・伊藤安兵衛両人は名古屋に引揚げた。そのあと同年中は名古屋表より「御先手御組衆方」が出張して川並の管理に当った。
⑤浜居場番所 元禄七年五月、川並番所を「はまいば」に建てるよう仰付られて、福島役所より三村豪右衛門が出張して敷地の検地をなし、古家にて番所を建てた。
⑥番所廃止 享保八年(一七二三)五月、また番所が廃止になった。
  この年には田立番所も廃止(田立庄屋文書)になっている。これは享保の林政政策の施行に伴い伐木停止となって不要となったからである。
⑦山口湊綱場・杭場 以前は田立に綱場があったが、享保の林政改革により綱場は同八年に廃止された。田立での番屋・建物は民間に払い下げられた。それから一九年後の寛保二年(一七四二)に山口に綱場が設けられたことが、宝暦四年(一七五四)外垣庄屋萬留帳の口上書のうちにみえる。「寛保二年より御注文御材木、山口村にて御留木ニ付御綱場御湊ニ仰せ付けられ、錦織御役所御支配にて川渡出役相増仰せ付られ候ニ付云々」とある。綱場が設置されていた位置はどこであったか、確かなことはわからないが黍生と市場の中間辺で川上川河口の上流辺りを結ぶ位置ではないかと推量される。黍生河原(現東部林産土場上流)に杭場が設けられ材木土場があった。現在は大部分が関電工事による堤防内になっているが、可知吉市氏の話によると畳石が敷いてあったという。現在堤防外にその一部が散見せられる。黍生の杭場は長さ五四間で、杭数八八本が打込まれていた。
⑧黍生・市場の御立林 延享元年(一七四四)四月、綱場附近の草刈場二ヵ所が錦織奉行所支配の「御立林」に指定された。この林は元来村山であったが、この年に「御立林」に指定されて取り上げられ、後宝暦九年綱場廃止の際村山に復したが、またまた寛政七年一〇月御留山に指定された。次の文書にそのいきさつがある。
        乍恐奉願上口上覚
 一山口村きびうニ村山有之候処、昨年延享年中之頃、木曽山御仕出御材木御狩下之節御留場湊ニ相成、其節右きびうの山場所御留ニ相成候、就而ハ其後錦織ニ湊相定候ニ付、山口村之御留場不用ニ相成候ニ付村山ニ被下置、夫より当年迄村山ニ相用ひ罷在候処、又々当年御用ニも可相成場所ニ相見へ候得ハ、御留山ニ被仰付候、山口村之儀毎歳御材木御狩下之節、川端所々ニ留木屋等相懸り候時は、きびうより木道具杯取り模通り宜敷場所ニ御座候処、不残御留山ニ相成候而ハ難儀之筋ニも可相成候間、何卒御隣愍を以、右山場所御見分被成御用之処ハ除き残り之分は只今迄之通り村山ニ被成下候様幾重ニも奉願上候右奉願上候通被為聞召分願之通被為仰付被下置候ハゝ難有仕合ニ奉存候以上
     寛政七年卯十月          山口村庄屋両人、組頭四人連署
⑨川並番所 延享二年(一七四五)一〇月、作平・太郎兵衛の田畑一反歩に番所が建てられた(楯庄屋萬覚書)。
 この場所は「はまいば」で享保八年まで番所のあった所である。
⑩市場河原杭場・土場 宝暦三年(一七五三)七月、市場河原に杭場が設けられた。杭場は長さ六三間・杭数一九三本であった(楯庄屋萬覚書)。
 同年一〇月に杭場の材木土場が造成され、作平・市三郎・太郎兵衛らの屋敷地が引当てられた。(外垣庄屋留帳)
 
          山口村
 一下田一畝廿歩  [太郎兵衛 作平]    一屋敷十二歩   作平
      山押永引        御材木場土場御用地引
 一屋敷二畝九歩  [作平 市三郎 太郎兵衛]     一同  二畝歩   太郎兵衛
      右同断御用地引      右同断御用地引
 一同 一畝廿三歩 [太郎兵衛 作平]
      右同断御用地引
    反数合八畝四歩
      内 [下田一畝廿歩 屋敷六畝十四歩]
 右ハ其村山押禿地并御材木場土場御用地引当、酉年より畝引如斯候以上
    宝暦三年酉十月              川口丈右衛門
                         沢田与惣左衛門
        山口村[庄屋 組頭]小百姓中
⑪番所・綱場取払い 宝暦九年六月七日川並番所・綱場諸施設が廃止になり、建物その他一切の諸道具が入札競売されることになった。外垣庄屋宝暦九年の萬留帳に一件文書がある。番所建物や綱場の様子がわかるから原文のまま掲げると次のとおりである。
 山口番所手代の入札通知回状
 一筆申触候、然は山口御役屋敷御取払ニ相成候ニ付、別紙入札案文五通差遣候間、其宿村々望之者は山口御役所え罷越見分之上、入札致候様ニ可被申聞候、尤案文書留置望之者え委細被申聞案文之通無相違様ニ相認、名之下封之所ニ令印形、来ル十八日迄ニ山口御番所え差出候様ニ可被申聞候、早々先々え相廻シ納所より山口御番所え相渡シ可被申候以上
        (宝暦九)
       卯六月十一日               中川長左衛門
                            林 定右衛門
 山口・田立・三留野・妻籠・馬籠・湯舟沢・落合・中津川、右問屋庄屋中
 
この回状に番所屋敷・長屋・高塀など建物の入札案文が附されている。番所建物の概要がうかがわれるので、繁雑になるが掲げると次のとおりである。
       覚
 山口御役屋敷
 一板屋     [長四間 梁三間半]    壱軒
  座敷     [弐間 三尺]之床押込付
  縁側庇    [五間半 三尺] くれえん弐尺
  敷台     [壱間 四尺五寸]
  座敷二間   葦天井
  台所  三尺窓[戸壱本 障子壱本]
  同所庇一間通り押廻し五間半
  湯殿并雪隠二ヶ所
  流し一つ
  戸 拾五本
  笹戸 三本  高塀ニ付候分共ニ
  障子 一本
  唐紙 九本
 右本家之分
       代金何程
 長屋
 一萱葺   [長九間半 梁三間]    壱軒堀立
   内門  長弐間 大戸壱本くぐり戸共
  東
   長屋  長三間半 [壱間之庇付 但六畳敷二間并台所]
       縁側庇弐間半に二尺五寸縁付
       小窓戸障子付
   雪隠          壱軒
  西
   長屋  長四間
       東西長屋に戸七本
            障子三本
            唐紙二本
            流し二つ
            棚板六枚

山口村絵図にみる山口川並番所位置図
(山口村役場蔵)

 右長屋之分
       代金何程
 高塀、板葺之分
   一押廻シ拾間半  土台附
 高塀、萱葺之分
   一押廻シ九間   土台附
 同西
   一萱葺 弐間
       右三ヶ所高塀代金何程
 右之通代金ニ而被仰付候ハゝ申請度(もうしうけたく)奉存候以上
     覚
 山口御湊
 一御綱小屋  [長九間半 梁弐間]  萱葺堀立  壱軒
 一松明小屋  [長八間 梁壱間半]  萱葺堀立  壱軒
 一御船小屋  [長七間 梁壱丈五寸] 萱葺堀立  壱軒
      此代金何程
 右之通代金ニ而被仰付候ハゝ申請度奉存候以上

山口川並番所見取図

    覚
 山口御湊
 一白口藤御綱  弐拾四筋    新綱
   此惣長五百五間程
  内
   四筋 本綱   百四拾八間程
   六筋 みす綱   六拾七間程
   六筋 釣綱   百四拾間程
   弐筋 張綱添綱  八拾間程
   六筋 張綱釣綱  七拾間程
 
 一白口藤古御綱惣長七百間程
  内
  古本綱     百五拾間程
  張流古本綱   弐百間程
  みす古綱    八拾間程
  古釣綱     弐百弐拾間程
  張流釣綱    五拾間程
 右惣長〆千弐百五間程
   外ニ七貫目程繕い藤七拾把程
     右之分不残代金何程

深渕漂材の図(運材図会より)

⑫宝暦九年番所建物取払い後の事情について 同一三年一〇月一三日「山口村口上書」(外垣庄屋萬留帳)のうちに次のように述べている。
 (前略)御願申上候ハ当所御役屋敷御取払ニ付、去る卯年(宝暦九)より先年之御振合ニ御番所村方之木銭御払ニ而被成御座候様被仰付候故、御詰め家一軒相建、御台所諸入用相続け、小使之者一人給金扶持米等出し差添置申候、尤木銭一夜に九文六分宛之御積りを以御払ひ御座候得共足し金等多相掛り難儀至極ニ奉存候間、先年之通御手前御台所ニ被遊被下置候様奉願上候、若又右之通難成御儀ニ候ハ、右足し金之儀被下置候様ニ奉願上候
この文面によると、番所取払い後は番所役人の来村時には、村方で宿を世話し、宿銭は支払われることになったが、村方で役人詰所を一軒建て小使を雇ってつけることにした。宿銭は一夜に付九文六分支払われたが、これでは不足金が多く難儀であるから自分賄にされたいと願い出た。それが無理なら費用は充分負担されたいというものである。そして願書の末尾に「右願書を以十月十三日ニ当村御番所へ願候得ハ御返上追而否可被仰付候由」とあり、村方の世話を中止するか、充分手当を支給されるか、いずれかの回答がある筈と記している。願書に去年一年間の村方が負担した番所の諸掛・出役人足手当等の明細書が添えてある。
       覚
 一金一両二分  御番所小使給分
 一米二石八斗八升右同人扶持方
     此代金二両壱分と五百二十文
 一金三両二分と四百八十二文    御番所味噌溜り油野菜代
 一銭二百文            御番所破損釘代
 一同六百文            同所ニ而大工・桶屋 扶持方并作料共ニ
 一同三百文            同所敷地代ニ地主へ払
 一同三百八十文          同所入用鍋等調代
 一同八百文            同所台所入用小道具并膳調代
 一人足五十八人          同所御川狩之節留守居
   此扶持米代金一分ト九百三十二文、但一人ニ付三十二文ツヽ
 一同六十五人           同所、所々繕并塩噌調ニ中津川行
   此扶持米代金一両ト三百三十五文、但一人ニ付銀ニして一匁宛
   右金ニ〆九両二分ト銭五百五十七文 但銭両ニ四貫文かへ
     (宝暦十二)
 右之通去午年内入用如是御座候
     未十月                 山口村庄人両人、組頭四人連署
        山口御番所

綱場