雨小屋

632 ~ 634 / 667ページ
大川狩中川筋には、人足が身体を温め休息するための雨小屋、上松奉行所役人の監視小屋、川筋警護に巡回する同心の休息する御鉄砲小屋、流材の障害を除去する木回し人足小屋など、それぞれの休息小屋が山口から錦織の間川筋の要所に設けられていた。文政二年の「瀬名付帳」から掲げると次のものがあり、帳の絵図にはみな煙が描かれているから常時たき火をしていたことがわかる。
(表)
 山口地内には古くから雨小屋は二ヵ所あった。享保一二年に坂下村西方寺河原に雨小屋が新設され、山口番所の管轄とされたから、火たき番は山口村で勤めてきた。寛保二年(一七四二)に山口綱場が新設されて雨小屋二ヵ所が増設され五か所となった。山口村では綱場の人足出役が多く難渋であるとして、西方寺河原雨小屋は田立番所の管轄に移され、以降田立村で勤めることになった。田立村庄屋文書宝暦五年四月の「口上書」(田立村誌所収)にこの様子を次のように述べている。
「前略一、奥筋より御材木御川狩被遊候節は勿論出水之節度々御材木押出し、他領坂下川原所々に散乱致候節揚木留木仕候て、その所々に番木小屋掛申候、但し木屋一軒に人足拾人程宛相懸申候、並に坂下川原西方寺前と申所、先年は山口村より諸事支配之場所に御座候得共、出水之節は桴越不申候故、当村より番木相勤申候得共、只今は渡船御座候節も当村より相勤申候、右西方寺川原迄は壱里半程も御座候故、夜番昼番等ニ参候節ハ薪等も持参仕候間、夜番ニ参候者ハ昼之七ツ時より、昼番ニ参候者ハ夜之七ツ時より罷越相勤メ申候」
右文書によると西方寺小屋は前には山口村で勤めていたが、出水の節桴越出来ないとして田立村で勤めるようになった。現在では山口には渡船もあるのに田立村で勤めている。遠方で薪持参するにも困難であり、ほかに三ヵ所の番屋の勤めがあり加えて田立番所への出役もあり難渋していると訴えている。これらの事情によってか宝暦八年に西方寺川原番小屋は山口番所の所轄になり山口村で勤めることになった。
 これによって山口村では五ヵ所の雨小屋の番を勤めることになり、昼番・夜番の交代には船渡しになるから一人づつではすまず三、四人もかかり、増水時には船が使えず他領の坂下で逗留しなければならず入用多く掛り難渋であるから、西方寺川原番小屋の勤はご免除願いたいと歎願書を出した。そして去年一年間の昼番・夜番の人足は一一八三人、雨小屋の薪拾い人足三五〇人を要したと述べている。この後勤務が解かれたかどうか不明である。