大川狩の際盗賊防止監視の番小屋が木曽地内に初めて設置されたことが、天明六年一〇月二一日付、福島山村役所の回状(外垣庄屋諸事留帳)にある。これによると大川狩の際木曽材木奉行所の同心が、夜中盗賊防止監護のため、上松から田立までの川筋の二六ヵ所に「定小屋」を設置することになった。その小屋は、これまで山口から下流川筋に設置されている「川防留小屋」と同様、一間四方手塗壁の藁葺き小屋で各宿村の所役にて、木曽材木奉行所の指図どおりに取り建てるようにせよと命じている。
享保林政改革によって桧類の伐木が停止されていたが、それより約六〇年後の寛政三年に施業案に基づく伐木が再開されるようになった。この伐木は尾張藩の直営になる伐木であったから山林・輸送ともに厳しい管理下に行われた。五木の停止木制が敷かれて八〇余年を経過し、その上伐木停止期間約六〇年にもなるので、桶類ほか生活用材の補充・新調に事欠き、村々では檜類の払い下げに種々の歎願を繰り返していた。また川筋の他領の村々においても増水の際の端材(かわ木)も入手出来なかったから、伐木が再開された寛政年間には夜間・増水時の盗取が往行したようである。木曽川対岸の苗木領坂下村には寛政年間の木材盗賊に関する文書が多く残っている。