留山

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寛文五年(一六六五)樹種の優れた場所七ヵ所を選んで留山に指定した。

 
 一おのたけ山の内いぐい川入残らず
 一上松山の内小川入 北またふんどう沢より奥
           南また下ばんどりより奥
 一野尻山の内あてら川入北沢より奥
 一田立山
 一湯舟沢山
  右の分留山
 一すはら小川入鈴か沢小つち沢、檜木物の分斗留山
   是ハ帆柱出申す山
  此書は石川八兵衛殿田辺四郎右ヱ門殿御持参御渡し
(萬留書)

右のうち最尾行の小川入の両山は檜類に限り伐木禁止された。「帆柱出申す山」というのは、秀吉の文禄朝鮮役の軍船の帆柱を伐り出した山という意である。
 貞享四年尾張藩は、御金奉行星野三四郎ほか三名を派遣して第二回の木曽山巡見を行い、巣山・留山の周囲の明山の木のあるところに三町、木のない所五町を新たに取り入れ新囲を設け、その区域を拡充した。これを鞘がけといった。留山はその後も元禄七年、同八年、享保七年、同九年、同一二年に増設された。
 享保九年八月には林政改革の一環として木曽山の各所に留山が増設された。尾張藩国奉行から山村甚兵衛あてに、留山指定の次の通達(県史史料編巻六所収)がある。
 一筆啓達せしめ候、木曽諸山のうち、別紙書付のとおり向後御留山仰せ付られ候間申談候様こと、年寄衆申聞され候ニ付、右書付進候間御承知、夫々御申付これあるべく候以上
       八月四日                        遠山彦左衛門
                                   中西甚五兵衛
                                   成瀬織部
      山村甚兵衛様
 一上田山正沢入りかうの川より奥々の分
 一原野山正沢入り岩屋沢より奥々残らず
 一蘭山南の川入り丸山残らず
 一同南野川入り、下は小屋場ケ沢より、奥は御巣山境迄残らず、
 一荻曽笹川入り押出御巣山続き両平明山残らず、
 一黒川山道潅御巣山続き明山の内、小屋の沢渡より奥々、并びに右御巣山向明山
 一王滝の内濁川入伝上谷、并びに白地川・樽ケ沢残らず、
 一瀬戸川明山残らず、
 一阿寺山渡より御留山境迄の明山、并びに樽ケ沢入りともに、
 一同長通り山
 一妻籠城山并びに水上山
 一殿村山の内とくさ沢
 右の通り木曽御山の内、向後御留山仰せ付けられ候間、申し談じ候様にと年寄衆申し聞かされ候、御承知夫々に申し渡しこれあるべく候、
 次いで享保一二年二月山口村賤母山、妻籠村賤母山が留山に指定された。宝暦六年六月、尾張藩書物奉行松平太郎右衛門(君山)が木曽地志調査のため村々を巡見した際に、山口村から提出した「山口村書上覚」(外垣萬留帳)に次のようにみえる。
 「一御留山一ケ所賤母山と申所
   但 享保十二年二月御留山ニ被仰付候」
 木曽の留山は、明治初年の帝室林野局の台帳によると二〇ヵ所で、総面積は二万六八九町歩となっている。留山を村ごとに一覧にすると次のとおりである。
(表)