留山・巣山の管理

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留山・巣山の山回りは、毎年五月と一〇月の二度見回りすることが定められていた。山の見回りは寛文五年留山制定以来山村家の支配下におかれていた。山村家の山方役人に村方から庄屋・組頭が随行して道案内をした。享保九年福島上の段に立会役所が出来てからは、尾張藩から出張の木曽支配方の山回り方と、山村家・上松役所の三者立合で見回りが行われた。元文五年立会所解散後は、前々のとおり山村家に委任され、徒士一人、足軽一人の両人が一組となり、四組にて巡回し、これに村々から庄屋・組頭が道案内に随行した。山内の盗木切越・風損木など山の状態を詳細に見分して回った。留山は村預けとされ管理責任は庄屋に負わされていたから、山回りだけでなく常に監視の責任があった。宝暦五年五月賤母留山の山改めに際し、村方から次の請書を差し出している。(外垣萬留帳)
指上申一札之事
 一当村賤母御留山今度御改なされ候ニ付、拙者共御案内仕り、一ト口かやよりたかう根通り御登り、妻籠御留山境二ツ岩迄、北方ハ長根通リ大川筋妻籠御留山境下のくひと迄、所々御見分なされ候処、盗木切越等之儀ハ勿論御山内怪敷儀御座なく候、此以後油断なく御山内気を付け、若し少しニても怪敷儀見出し候ハ、早速御注進申し上べく候、怪敷儀存し知りながら隠置、後日に露顕仕候ハ御詮議之上、急度越度ニ仰せ付けらるべく候、将又御山内火の用心堅く相慎申すべく候、後日のため一札指上ケ申所件の如し。
      宝暦五亥五月六日               庄屋両人、組頭四人連署
        覚
一当村賤母御留山御改めなされ候ニ付、拙者共御案内仕り候処、新態皮はぎ、根かへり、風折木一切御座なく候其のため此の如く御座候
      宝暦五亥五月六日               庄屋両人、組頭四人連署
              八木又治郎殿
              小川権蔵殿
 右の御奉行様五日夜田立御泊り、六日朝賤母山へ御登り妻籠御泊り御越なされ候、
右にみるように留山の山回りは毎年五月と一〇月の二回定期的に行われ、江戸時代を通じて実行された。
 留山の監護を徹底させるため、留山と明山の境は一間幅伐り明けて通路状にし、立杭を立てて明山との区別を明確にした。境の伐り明けや山内通路は雑木や草が生い繁るので、時折り冬の間に掃除作業が行われた。寛政九年二月二二日から二九日に至る見回り掃除の記録(外垣萬留帳)がある。
 二月廿二日賤母山内見回リニ両庄屋、拾三組組頭、御百姓弐拾人参ル
 二月廿三日組頭長六・鎌蔵上山口人足召連賤母御山内見回り仕掃除ニ参ル
 二月廿五日組頭孫八・儀平下山口人足召連賤母山見廻り掃除ニ参ル
 二月廿八日組頭鎌蔵・長六上山口人足召連賤母山掃除ニ参ル
 二月廿九日組頭孫八・儀平その外九人の組頭衆(十三組頭)下山口人足召連賤母山掃除ニ参ル、
右の記録にみると伐明掃除に五日を要し、これに要した人足は一〇〇人と推定される。
 裏木曽三ヵ村でも三浦山・裏木曽三ヵ村山の見回り、境の伐明け、山内の道橋・山小屋の修繕等に毎年人足割付がされている。享保の林政改革後は藩林管理制度が厳しくなり、住民は山林用益と無関係な藩林管理に労役を課せられるようになった。