寛文の林政改革が行われたころは、慶長以来の過濫伐によって木曽山の林材資源は、その半ばを失ったとみられる時期であるが、木材の需要は一応下向に向かいつつあった。しかし一方藩財政は逼迫して、立直しの必要に迫られていたときであったので、木曽の林材収入に期待がかけられていた時期でもあった。木曽山の林材資源の恒久化を図るため、幕府や諸藩の注文材や商人の採材活動に制限を加えた反面、売木を主体とする藩用材の採出量は以前より多くなった。このように藩の財政要求に応えながら山林資源蓄積の維持を図ることは困難な状況にあった。延宝八年敏腕理財家として知られた小山市兵衛・山内治太夫の起用によって、藩財政は立直りを示すに至ったためそのころからこれまでの営利的採材を抑えながら、林材資源の維持培養をはかる林業政策が実行に移されるようになった。
貞享四年(一六八七)藩は、御金奉行星野三四郎ほか三名を派遣して第二回の巡見を行い、その年巣山・留山の周囲を三町ないし五町の幅新囲いを設けて地域を拡大した。元禄二年には金槇(こうやまき)・栗・松・槻(けやき)を留木に指定し許可なく伐採を禁じた。
元禄一二年には年貢木椹榑の規格寸法の縮小と椹以外の木種による代替を認めている。元禄一二年より享保三年の岩郷村「御役木寸法控帳」(県史史料編巻六所収)によると「御年木椹榑木斗りにては尽御山故、至極出来兼ね申し候由、これによって百姓中願の通り尾州え仰せ達し下され候処、此度右木品を以って割替御訴訟相済申し候、榑木の儀は亥年(元禄八年)仰せ出され候切替寸法、雑木にても出申す筈に候(下略)」とある。これによると尽山になって椹ばかりにては採材が出来なくなり、全体の三分の一は檜・明檜・〓子・槇にてもよいとし、規格も元禄八年に定まった縮小寸法にて木取してもよいことになった。その場合は縮小分だけ割増して納入すればよいと申し渡している。その後宝永五年一二月更に規格縮小され、享保二年四月にも更に縮小寸法になり、木種も松・沢くるみ・どうの木・柳・きわた・こんせつ・犬たらなど雑木で採材してもよいことになった。