徹底した伐木制限

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宝永五年(一七〇八)五月、檜・椹・明檜・槇の四木(後享保一二年〓子を加えて五木)の伐採を厳しく停止した。「停止木(ちょうじぼく)」の公称が生じ後にこれを木曽の五木といった。この禁木制は木曽山林の大部分を占める明山全体に適用されるだけでなく、入会地の林野にも百姓控林にも後には「焼畑」から個人の屋敷木にまでその範囲が及ぶようになったため、谷中住民の難儀は一通りでなかった。明山から年貢木や「御免白木」を採出する農民と山稼ぎを生業とする住民たちの困惑は目に余るものがあったところから、村々から上松材木奉行所や山村役所に押しかけ陳情や嘆願を繰り返して、厳しい規制の撤廃や取締りの緩和を迫ったが一向に聞き届けられず、却って村役人が叱責と弾圧を受ける結果を招いた。翌六年には停止木以外の樹種か、廃木から採取するほかなくなった。谷中「御免白木」の半数(三〇〇〇駄)を止めて交附金二〇〇両に替え、年貢木は伐採後の株木や末木、枯損木の類から採取することになった。
 享保六年には、藩は普請奉行大村源兵衛・勘定奉行加藤仁左衛門・五十人目付清水太郎右衛門・上松材木奉行戸田八左衛門・水奉行市川甚左衛門ら一行一五人を、木曽山・裏木曽山・美濃七宗山に派遣し巡見を行った。この巡見は山林行政の内面調査に重点を置いたもので、村々に命じて立木調査を行った。この時の調査では元口六寸以下の立木は除かれている。それ未満の立木は伐採することなく、山林の天然更新をはかるために残したものである。この時点の立木蓄積では藩の恒久財産とするにはなお足りなかったので、その年明山の〓子を留木に指定、翌七年には更に松を加え、同年また谷中の切畑に対する制度と取締を強化した。同七・九年の両年度には一二ヵ所の留山が新たに指定された。同八年には山村家の「御免白木」五〇〇〇駄を雑木に切替え、翌九年には谷中「御免白木」の残り半分の材種・規格を格下げし、更に谷中の木年貢を停止して米納に切替えた。また新規の切畑と板屋根を禁止し、また百姓控林を一律に回収してこれを村預けとするなど、一連の強硬政策を相次いで実施した。一方では営利木材の生産は全面的にこれを抑制し、藩用の木材は必要最小限に止め、それも枯損木からの取材を優先させるなどして、木曽山林復興のためのあらゆる施策を集中していった。
 享保の林政改革は、さきの寛文の改革に比べてその密度と規模において比較にならない程の懸隔がある。それは享保の改革期における山林の荒廃度が極度に疲弊し、明山のほとんどが若齢木許りの様相を呈し尽山となったそれを恒久的財源として保続するには、徹底した伐木制限を敷いて将来の画策を樹立することが眼目であった。これを確実に推進するためには、現地の住民の山林用益などは考慮することなく、一途に木曽山をはじめ裏木曽山・美濃の七宗山の「御林化」を図ることによって、所期の目的を達成しようとしたところに享保の林政改革のねらいがあったといえる。