享保九年八月藩は林政改革の徹底を期するため、福島上の段に普請奉行の大村源兵衛を長官とする立会役所を設け、上松材木奉行所を併合して材木改役とし、山村役所と三者立会の合議制とし、山村氏の緩慢な施政に強い干渉を加えると共に、今次改革の重大性を一般に認識させる手段とした。
この年に施行された総検地は、これまでの木年貢の廃止に対応する処置でもあった。元来村高のない木曽の村々の定納年貢は、少くも現在の農地とかけはなれたものになってしまっているため、その実際に即して負担の公平(美濃・尾州領と同様に)を期する必要もあってのことである。検地のことは検地の項に記述したから省くが、検地の結果木曽の年貢高は平均三・四割増し、元来飯米の不足する谷中にとっては苦痛とするところであったが、それ以上に深刻な問題は木年貢の廃止によって、これまで役木の「下用米」として給付されていた年貢穀が村々に還元されなくなったことである。検地後役木の復活と切畑の制限緩和をめぐって村方の陳情歎願が繰り返されたが、元文五年検地の復活など一部の手直しはあったが、年貢木は復活しなかった。同五年今次林政改革が一応の軌道に乗り成果がみられたとして、谷中政務一切を藩役人の立合とした制度を廃し立会役所は解散して、材木役所は上松に引き揚げ、以降「木曽材木奉行所」と改称した。