木曽は元来耕地に乏しく、その収穫だけでは住民の食糧を賄うには足りないので、柴山を利用して切畑を作り雑穀を収穫して、それをもって補っていた。
切畑は山腹など雑木のある所を選んで焼き、その灰を肥料として播種するのであるが、三年位しか連作がきかない。初年には蕎麦(そば)、二年目には大豆、三年目には稗(ひえ)・粟などの雑穀を作るのであるが、これで肥料が消耗して三年しか出来ないので、場所を変えなければならない。一度切畑にしたところは数年から一〇数年休ませないと地力が回復しないので、広大な面積を必要とし、このために森林を荒廃させることと山火事をおこす原因となることが多いので、切畑に対する取締りは厳しいものがあった。最初は山火事の原因となることを警戒して、火入れ時の取締りを主としていたが、享保六年の木曽谷巡見の結果、山林荒廃の原因ともなるとして、同七、八年に切畑制限が強化された。この様子を享保九年の木曽谷中「御触状留(二)」(福島村井郷右衛門控)にみると、次のようである。
1 今まで切畑にしてきた所は許可になるが、新規の場所は禁止する。
2 前々に切畑にしていた所であっても、木立のある所は新規の場所として扱う。
3 今後切畑にしたい所は、前もって申達いたし、上松奉行所より見分の上、前に切畑であったかどうか調査の上で許可する。
右のように、尾州表から仰せだされたから、承知するように申し渡している。
これまでの切畑は、庄屋・組頭に届け出て作ってきたが、今後は毎年春のうちに切畑場所と面積を山村役所を経由して上松役所に届け出て、場所の見分を受けなければならないことになった。切畑が制限を受けるようになっては住民は難儀であるとし、今までどおりに願いたいと再三歎願を繰り返した。山村役所から藩庁に申達したが、取り上げられずかえって厳しい申し渡しをうけた。これをうけた山村役所は、次の申し渡し書を村々に通達した。
谷中切畑の儀に付村々え申し渡す覚
一切畑の儀再三願の趣吟味の訳、ともに委細尾州え相達し候処、今度仰せ出され候は木曽御山の儀、段々尽山に罷り成り候処、谷中百姓共相慎まず猥りに罷り成り御停止の立木切捨、又は新規の切畑をも心儘に致し来り、「小ひそ」等も焼捨て利欲専らに相心得、切畑際限無く罷り成り候と相見え、其の外御為に宜しからず儀共これあり候に付、近年巡見仰せ付けられ御吟味の上、再秋再往仰せ出さる事に候、切畑の儀は上松奉行役所より見分の上、切畑致させ候ては差支え候儀これあり候に付、請難旨段々申し立て候得共、谷中一度に切畑致し候儀もこれなく、年越段々切返す埒(らつ)に候得は、来年切返し場所は当年より心当り致すべく候故、前広(まえびろ)に上松奉行役所え断り申達見分請候儀は、罷り成り候事に相見え其の上再往仰せ出されもこれある候に候故、旁々以って願の趣相談に及び難く候間、弥去秋仰せ出され候とおり心得らるべく候、然る上は渇命に及び候歟(か)、又他国へ立去り候者共の儀は心次第に致すべく候、此の以後願申し出ず候様に堅く申し付、此の上にも願候村々もこれあり候はゝ、其の村々にて頭立ち候者二、三人程宛、尾州へ差し出し願申させ候様、急度御吟味仰せ付られ実否糺(たた)さるべくとの事に候間、願書并びに吟味書付共に相戻し候、右の通り百姓共願相調申さず候間、仰せ出され候とおり畏み奉るべく候、夫に就いて心得罷り在るべく品左に申し渡す。
一去秋より切畑の儀再往相願見分請候では、作り候儀成り難く相止み申すよりほかこれなく候、切畑相止め候ては、渇命に及び段々乞食に罷り成り候と差詰り候趣、一統に相なげき尤尾州表御吟味の上再往仰せ出され候儀に候得ば、申達かたき儀と勘弁せしめ候得共、大勢の者共難儀差詰り候儀捨て置難く、委細吟味を遂げ申達候得共、相調はず其の上惣て今度の願百姓共其だ不届に候間、以来急度申し付べく旨并に役人共、取り扱い共に甚だ不届に候間、以来急度申し付く旨并に役人共、取り扱い共に宜からず旨仰せ出され候、右の趣承知仕り以後堅く相慎み、切畑の儀に付いては、此の上願等申し出まじく候、万一おろそかに相心得猥りに訴訟申し出る村々において、騒動がましき躰仕候においては急度曲事に申し付くべく事。
一切畑相止めの渇命に及び候歟、又は他国え立去り候者の儀は、心次第に仕るべき旨仰せ出され候得共、弥(いよいよ)其の儀はかまいこれなく候、然れども村々において渇命他国へ立去り候者、并に乞食に罷り出候者人数書き付け、其時々に此方え相届け申すべく事。
一此の上願候村これあり候はば、其の村々にて頭立ちし者二、三人程宛尾州へ差出し候様にとの事に候、定て急度御吟味これあるべく候間、罷り出る者共勝手次第に罷り出で申すべく候事。
一切畑見分請難訳は、旧冬吟味候節より当春に至る迄、追々惣百姓これを決定申し候ての趣、尾州表え相達置候得共、先此の上見分請候ても作り候道筋これあり、見分請度と存候村々は心次第に見分請、作り申すべく候事。
一谷中百姓共相慎まず猥りに罷り成り候者は、急度仰せ出され候得共、此己後万端相慎み御為の筋太切に相心得申すべく候、且又尾州表の儀至極の御倹約候へば、向後前々の形を以って願等申し出で候ても、取り次ぎ申達候儀罷り成り難く候間村々存じの旨、此の上願等申し出でず候様にいたし、何分にも取り続き候様に覚悟致すべく事。
右の通り申し渡し候上は、切畑の義に付いては軽き願等にても一切申し出間敷候、取り次ぎ申す儀罷り成らず候、此の旨谷中惣百姓、承知せしめ急度相慎み申すべく者也
(享保九)
辰三月
右仰せ出され候趣、承知奉り候村々において惣百姓共え申し付け、急度相慎み申すべく候、万一不埒候様子相聞及び成され候はヾ、御詮議の上何分の越度にも仰せ付けられるべく候
享保九年辰三月 谷中宿並在々
問屋・年寄
庄屋・組頭
福島御奉行所
切畑を作ることは火災の原因だけでなく、山林監護の上から特に重要視されていた。享保の林政改革の目的は、これまでの伐木規制という消極的な政策にとどまるのでなく、尽山と化した全藩林の資源復興を目指して、恒久的財源の確保を図らんとすることにあった。これまでの略奪的採取林業から育成林業への転換であった。この政策は当面の推進者であった国奉行遠山彦左衛門、この政策推進援護する俊鋭藩老鈴木丹後守、木曽山の担当者である上松奉行市川甚左衛門の決意と実行力によって、つぎつぎに打出される改革が断行されていったのである。右の切畑申し渡し書の文中にも林材資源の復興にかける藩庁の断固とした厳しい気迫がうかがえる。それに対して山村家は林政改革に打出される諸政策に対して、谷中住民の利益にならぬとして万事緩慢な態度を示して、藩庁の叱責をかっている様子がみられる。検地後山村家の重臣四名が、「不直の儀に付」として蟄居を命じられ検地後の政務から遠除けられるという処罰をうけたことは、検地の項で述べたが、右の「申渡書」の文中にも山村家の態度がうかがわれる。こうしたことから藩庁では一層毅然とした態度をとったと推察される。
切畑は検地後、厳しい規制をうけほとんど禁止の状態になってしまったから、隠れて作った者も相当あったようである。『木曽の村方の研究』(徳川義親著)によると、享保一二年八月国奉行遠山彦左衛門が改革の施政を検分するため木曽山巡見をした際、違反者が発見され処罰をうけた例があると述べている。罰則を掲げると次のとおりである(『木曽古書類』による)。
見分を請けず当然指免し難き場所を切りたる者 過料雑穀一斗
見分を請くれば指免しを得る場所を切りし者 過料雑穀五升
切畑をするため小檜曽(こびそ)を切りし者 過怠牢舎三〇日
栗・松を伐った者 過料雑穀五升
違反者を出した村の庄屋 過料二〇〇文
同組頭 過料一〇〇文
山村家の家臣職務怠慢の理由により 叱の上逼塞三〇日
この規定はその後も踏襲されていったようである。切畑制限は享保一四年にやや緩和された。後天保年代に切畑違反者が続出したので、同一二年に切畑禁止となったが、二年後の弘化二年に緩和された。
切畑は村によって多少事情が異っている。『木曽の村方の研究』に、享保九年検地時の書き上げがあるから、これを掲げると次のとおりである。
西野・末川・奈川。
この三ヵ村は田地が少ないので切畑を最も必要としたから、特に制限は緩和されている。
黒沢・黒川・菅・上松在郷・三尾・上田・岩郷・福島・王滝。
この一一ヵ村は切畑が多く雑穀も収穫している。
野尻在郷・与川・荻原・蘭・柿其・三留野在郷・妻籠在郷・長野・殿・原野。
この一〇ヵ村は切畑が少なく、多くは畑続きの藪を切って焼畑としている。これは藪畑として普通の切畑とはやや趣を異にするものである。
田立・山口・湯舟沢・宮越在郷。
この四ヵ村には藪切畑もない。
奈良井。
薙畑が少しあるばかりである。
贄川・須原・馬籠。
この三ヵ村の事情ははっきりしないが、切畑はなかったようである。
右の記録以後切畑の様子はよくわからないが、天保から嘉永ころに切畑をしていた村々は、西野・末川・黒川・黒沢・王滝・三尾・岩郷・上松在郷・福島在郷・上田の一〇ヵ村であったとされている。享保検地当時切畑の多かった奈川・荻曽・藪原在郷・菅の四ヵ村は切畑が中絶している。切畑をする場所には制限があって、従来許可された場所以外には作ることが出来ない。毎年そのうちのどこを作るかということを極めて届け出で、見分の上許可を得て、初めて作ることが出来るのである。各村の切畑場所の数・面積等を知る資料が少ないので、明らかにすることは出来ないといわれる。王滝村についてみると、享保九年から安政三年に許可された場所は一八八ヵ所、その面積は概算で一九四三町歩となる。この面積は山口村の田畑面積の二六倍に相当する。毎年切畑にするのはそのうちのいくか所であるが、農家一戸当り一~二町歩であったといわれる。