木曽谷中三大法度

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巣鷹野火法度、切畑法度に川並法度を加えて、木曽の三大法度という。この三法度は毎年山村家の役人が三組に分かれて村々を回村して、庄屋宅に小前百姓亭主を呼び集め、庄屋が役人の面前で読み聞かせた上で銘々の書判をとって出張役人宛の誓約書を提出させていたが、あて名は享保から山村家地方奉行あてになった。役人回村の時期は、最初は野火法度が野火入れの前の二、三月ころで、川並法度と時期を異にしていたが、宝暦九年ころから両法度は同日に読み聞かせることになった。村において読み聞かせの形式は、山村役所の役人が出発の際、福島の問屋から各村庄屋あてに、出発の時日・馬・人足・指定宿等を先触にて回す。各村の庄屋は役人出張の通知があると直に法文の全文を書き写しをする。当日自宅に村民を集めて役人の面前で読み聞かせた上で、この法度の条文を遵守すべきことを誓約させた請書を提出させるのである。村々では請書のことを手形と称した。手形というのは、古い時代には手のひらに墨を塗り、ひろげて押して後日の証として文書に押した。中世になると、書判(花押)が行われるようになり、江戸時代初期に印判を使用するようになった。寛文年代(一六六一~七二)ころまでは書判と印判がまちまちであるが、次第に印判に統一されていった。
 役人の面前で法度を読み聞かせる当日、他所に出て不在の者は庄屋が調べて置いて、帰村次第法度を読み聞かせる旨の覚書を役人に提出した。
 右の三大法度手形は当村では見当らないが、王滝村の「享保~宝暦古事記録」(王滝村教育委員会蔵)に、享保七年三月提出した「巣山・留山、草山・切畑」の野火法度がある。長文のものであるので、要略して掲げると次のようである。
        指上申一札の事
一村中草山焼申す儀春中山々雪御座候節、風これなき日を見合せ、庄屋組頭吟味仕り、村中残らず召連罷出、焼申すべく候、焼留(とま)り申さず内は、其場所どれどれも付罷あり、外え火移り申さず様に致し焼申すべく候、幾所に草山御座候とも、右の通り仕るべく事、
一切畑の儀弥々新規の場所は堅く御停止に候、先年より切畑に致し来り候場所も木立の所は勿論、これなく候ても、御草山・御留山近辺又は山伝い通路なる所々は、新規同然堅く御停止の筈に候間、此の以後切畑の場所吟味仕り置、上ケ松御役所(上松材木奉行所)え申達御見分の上、切返し仕るべく旨毎年堅く仰せ付けられ畏み奉り候、弥切返畑仕り候節は場所委細吟味仕り置、庄屋、組頭え相達し、右御見分請、御免(許可)次第切返畑仕るべく候、若し相背御見分請得ず切返畑仕り候はば、本人は申すに及ばず庄屋・組頭何分の越度にも、仰せ付けらるべく候、且又右御免の上切畑焼申す節も、風これなく日を見合せ、庄屋・組頭人数召連れ罷り出で焼留(とま)り申さず内はその場所に罷りあり、外え火移り申さず様に仕るべく候御事、
一草山并に切畑申す儀、庄屋えも相届けず内証にて御百姓仲間相頼み人少にて罷出焼申候はば縦え脇え火少も移り申さず候とも、その本人は申すに及ばず妻子共に籠舎(牢舎)、其上にて急度御追放仰せ付らるべく旨、承知仕候、并に御百姓共より庄屋え相届け候上に、庄屋手前にて不吟味に仕不沙汰の儀御座候はば、急度越度仰せ付らるべく旨畏み奉り候御事、
右草山・切畑焼の火の用心に関する三か条のほか、入山する者の火の用心注意を第四条~第六条に掲げている。
要略すると次のようである。
一漆植場所の造成については、前々より上松材木奉行所の申し渡しのとおり火の用心に留意して行うこと。
一村中の者薪・木草採取に村山は勿論、他村山に入山の節たばこの火の用心に注意を払い、万が一にも出火の場合は、庄屋・組頭村中の人足を引連れて消火に努め、その上に手に余ることになれば近郷の加勢を求めて万全を期すること。
一いずれの村にても山火事が生じ加勢を求められたときは、昼夜にかかわらず直ちに村中に知らせ、庄屋村人を引き連れて消火に当ること。
次の七・八・九・一〇・一一条には、五木の停止木、留木の取り扱い並びに村預りの林の伐木について述べている。
一檜・椹・明檜・〓子の立木伐採は申すに及ばず、右生木の皮剝ぎ取りも堅く禁止の事は、兼ねて申し付けのとおりである。明山内において雑木伐木の際に、「小檜曽(こびそ)」を痛めぬ様に留意する事。
一栗等留木の分伐採は、許可なき伐木は一切禁止である。家作材・土木用材等余儀なく必要とするときは、文書をもって上松奉行所の許可を得た上で伐採し、その伐り株の御改めを請けること。又鍛冶屋は栗の切株等にて(炭を)焼くことになっている筈である事。
一松は前々から申し渡されているとおり家作木に使用することになっているから、栗と同様許可を得た上でなければ伐り取らない事。
一御巣山・御留山内においては盗木・切越等一切禁止のことは申すに及ばず、村預りの林においても小木に至るまで一切伐木はなさぬ事。若しよんどころなく入用のときは文書をもって許可を請けた上、許可の木品に限り伐木すること。
一巣鷹の発見については、巣守人は勿論、百姓中においても彼岸入りから注意し発見に努めること。
一橋々は平常気を付けて掃除をし、冬の間雪の積った時はかきおろし置事。
一当村山に岩茸取りに来た者に宿を貸すことは一切しない事。
一谷中御免檜物細工の白木・桶木・そぎ板・茸板などの材料は明山から採取して生活の糧としてきたが、近年は原料材が減少し採取困難になったが、御巣山・留山内に入り盗取りは一切しない事。
一右の板類・桶木等そのほかの諸原材料が明山内にては得られない不相応の良品を持っている者が発見されたときは、その売手を調べ原材料の出所山を明白に糺すから承知して置く事。
一谷中御免檜物荷物三千駄及び檜笠・木履(下駄)等許可された分のほかは一切谷中より外へ出荷することは、前々より厳禁されているが、享保九年より特に厳しく達せられているから、お互に監視し合って違反のないように留意する事。
右の趣例年仰せ付られ候御儀には御座候へ共、自今以後なお以って急度相守り申すべく旨仰せ渡され畏れ入り奉り候。若し相背申す者御座候はば吟味仕り早速申し上げるべく候、隠置外より露顕仕り候はば、当人は申し上げるに及ばず、村役人共何様の曲事にも仰せ付けらるべく候、其惣連判を為し差し上げ申す所件の如し。
     享保十七年子三月三日                庄屋・組頭、百姓残らず(連署連判)
    福島 荻野文左衛門殿
 草山・切畑焼について毎年「火の元取り締り」の通達が、村々に達せられている。天明六年(一七八六)の外垣庄屋諸事留帳四月七日の回状には、「草山并に切畑焼候節火の元手当の儀、毎歳急度仰せ渡されこれある事に候へば、右の通り相守るべき儀は、勿論の事に候へ共」とし、近年は草山焼の火が場所外にまで延焼して、停止木等を焼き損じていることが多々ある。火の元の取り締り方について尾州表より沙汰があったから、毎年申し渡していることを必ず守り、草山焼等の際「外に火移り停止木等痛に相成らざる様、精々念を入れ申すべく候」と達している。
 右より八年後の寛政六年二月六日の回状では、前年と同様檜類・小檜曽に損害を与えぬ様、草山焼には昨年よりは役人を村々に派遣され火の元の取り締りをされる様になったとし、次の様に達している。
 廻状を以って申し入れ候、村々において毎年野火付候節、草山焼先達て焼切置その上火を付け候節は、村役人、御百姓召連罷り出で草山焼候事に候得共、近年は締り方不行届候哉、火を延し檜類立へ焼込み小檜曽数多痛候に付、去年よりは役人村々え相廻し、先達て草山境急度焼切相渡され申筈に候、右野火付候節は毎年仰せ渡され候通、村役人御百姓召連罷出、風これなき日草山焼申すべく候、万一風立ち候共檜類立え焼込み申さず候様致べく候、右焼切場所見分の役人指出し候時節、前広(前もって)申達べく候、其程に随ひ役人遣すべく候、且又檜類これなく場所は、是迄の通り村方にて締り宜様急度申合せ、外え火移り申さず候様いたし、勝手次第焼申すべく候、左様の場所は見届に及ばず候故、役人は遣し間敷候間、勿論申達に及ばず候
     寛政六年寅二月十六日 川崎八郎右衛門ほか一名
 尚々大造の場所に候得ば、三、四人つつ役人差し出すべく候間、余程前広に申達べく候以上
 このようにして享保以来毎年継続して村民に読み聞かせた三大法度は、慶応三年幕府の大政奉還によって、巣鷹献上のことがなくなったので、翌四年から巣鷹の要項を抜き野火法度だけになった。
 明治二年尾張藩は版籍奉還して名古屋藩県となり、手形のあて名は、山村役所が名を変えた福島総管所となり、翌三年には出張役人は上松材木役所の役人二人だけとなり、あて名は福島総管所が名を変えた福島出張所となったが、同四年には材木方手代一人のあて名になり、更に同五年には役人の出張は廃止されて、庄屋・組頭に一任された。享保以来木曽の林政に最も関係の深いこの法度も同年限り廃止となった。