明山内において村・部落または個人が白木・柴草等を独占的に採取する場所があった。これを控地とも控林ともいう。控主以外の立入りを許さぬことを特徴とした。控林には祖先が武功の恩賞として下賜されたものと、個人の切起地の二者がある。前者には黒川村の古山・郷山のように祖先の武功の恩賞または由緒等によって成立したものである。その最大にして、しかも藩より相当に用益上の権利を認められていたのは黒川村の古山及び郷山である。古山は五貫文山と称し、祖先の武功により黒川村庄屋古畑氏の所有であり、郷山は三貫文山と称し、村控になっていた。三貫文山は古畑氏の一族馬場氏の所有であったというが、馬場氏が木曽を立退いて以来村控となったようである。このほか荻原村庄屋の控地を始め村々に相当多く散在していた。元和元年尾張領になってからは、いずれの控地も公の権利は認められなくなった。木曽氏の遺臣の所有する五貫文山・三貫文山は四二二ヵ所にわたり、旧帝室林野局の台帳では地積二〇四五町八反七歩となっている。
後者切起地は、村民が自家用の白木・柴草等採取の目的をもって本田続きの地、或は手近な明山内に植林したもの、または柴山・草山を林に取り立てたものが年を経て、その区域を独占するに至ったものと思われる。
控地の調査は享保九年の検地と同時に行われた。同年一一月各村に控場所の書き上げを命じ、黒川村古山以外の控林は、個人の専有を禁じて全部村預けとした。この年村預けとなった控林を後に「享保度林」といった。
これについて同年一一月山村役所は次の通達を出している。(山村家『留帳抜萃』)
一十一月三日百姓控林向後村の御預の義申し渡し候、
谷中百姓共の内、控山所持せしめ候者もこれある由に候、全体木曽の儀百姓控の山林はこれなく儀に候へ共、その村々明山の内を、その所の百姓控候様に申しなし候ものと相見候間、百姓共右の訳よくよく申し聞され、山林控と申す儀相止させ、只今迄百姓控の山林その村え御預け候間、断りなく木一切伐り取り申さず、若し木切らずして叶わぬ時は断り申達候様に申し付けられ、断り相達候はば、よんどころなく聞届、少々切り候義は指免さるべく候、大分の義又はよんどころなき訳なくして木切り取りたく断り相達候はば、此段は取り上げず候様に相心得らるべく候
(享保九)
十一月
右の申し渡し書にあるように、木曽には百姓所有の山などある筈がない。つまり山はすべてお上(かみ)のものであるという前提に立って、林と名付く以上は個人の独占経営を禁じた処置であったから、同年以降においては「百姓控林は一つも御座なく」という請書を村から徴するようになった。こうして木曽の山林は原則として藩の管理下に置いたのである。しかしこれによって百姓の慣行上の用益権が全く認められなくなったのではない。ただこれまでの様に勝手な伐木が許されなくなっただけであるから、いわば他人の用益のできない明山となったまでで、実質的には一般の百姓林と大差はなかった。従って控林内において停止木・留木以外の採取は比較的自由であったので、明山内において無断伐採したのも控林で伐ったと申し立てて罰を逃れる者もあったために、森林保護の上から林政当局ではこの際盗背伐の口実封鎖や山内取り締りの強化と、木曽一円支配の実をあげるためには、私有的山林の存在を認めるわけにはいかなくなって村預りの処置をとったのである。村預りになった控林において木を伐る場合には庄屋の許可を得なければ伐木できないのである。