享保九年山林はすべて藩のものであり、百姓の控え山林などある筈がないという見解から、これまでの「百姓控山」として私有してきた山林を書き上げさせ「村預」とし入会山とした。その後また田畑の続地などに林を立て「控山」とする者が出来た。安永三年(一七七四)三月藩はこれらの百姓山を再び禁止して、入会山とし村預けとした。安永九年外垣庄屋諸事留帳に山口村惣百姓の提出した請書がある。
差上申一札の事
一新規立林の儀は、元来御停止に御座候処、享保九辰年尾州より仰せ出され候は、木曽村々百姓共の内控の山林所持仕り候者もこれある由、全体木曽の儀百姓控の山林はこれなく儀に候得共、其村々明山の内を其所の百姓共、控候様に申しなし候ものと相見候間、山林控と申す儀相止め候様にとの御事の由にて、右の段辰年仰せ渡され、尤も右山林の儀は御取揚村方え御預け置かれ候段、仰せ出されの趣共に一統承知畏奉り罷在り候、右の通り仰せ出され候に付ては、辰年御改お預け林の外は、新規立林は仕りまじく筈に候処、村により心得違候て田畑地積等其外にも面々に控山と心得、追年新規立林仕り候者もこれあり、木草取候場所も狭く相成、其上猪猿等籠り候由聞候、前顕の通り新規立林は仕りまじく筈に候処、甚だ不埒の儀に候間辰年御預け林の外、追年立林の分は村に入会にて早速伐り潰し候様仕るべく。
但し辰年以後新規立林の内にも立置候て格別利益これあり、村中一統の助成に相成候場所もこれあり立置申渡候はば其段御役所え相願候様、御吟味の上何れも仰せ付けられる由。
右の通り今般仰せ出され一統畏み奉候、若相背候者御座候はば当人は申すに及ばず村役人共に、急度曲事ニ仰せ付らるべく候、仍て惣連判差上げ申す所件の如し。
安永九年三月 村役人并惣百姓連印
右にみるように新規立林は安永九年に伐り潰しをした。明治の地租改正の際に、享保度林と同様個人所有を認められた。明治八年山口村山林書上書によると新規立林は次のようになっている。
一新規立林 九か所
反別 一町七反四畝十五歩
立木数 雑木 五百五十八本 但し枝下二尺より三間まで
目通り廻り一尺より一丈まで