享保の林政改革の成果

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享保の改革は、現地住民に致命的ともいえるほどの苛酷な規則が推進されたため、窮民の間には山林の盗背伐を敢えてする者が続出するなど、当事者の予想した以上の悪い事態を生じつつあることが、享保一一年、同一二年の遠山彦左衛門の巡見によって判明した。しかしここで緩和措置を執ることは出来ず、上の段の立会役所を督令して山林取締を一段と厳重にする一方、同一三年には蘭村に特免されていた檜笠を一〇万蓋に制限し、更に檜に紛らわしい〓子を停止木に加えた。これで停止木は五木となった。次いで同一四年には裏木曽三ヵ村の年貢木を廃止し米納に切替えた。元文二年には桂(かつら)・槻(けやき)を留木に追加した(槻が停止木になるのは一二二年後の嘉永二年のことである)。元文期に入ると改革施策が軌道に乗って成果がみえ始めたこともあって、改革の行き過ぎ分の手直しが行われる。元文四年検地の際年貢付となった寺社や村々の除地と板屋根を復旧し、山村家の「御免白木」五〇〇〇駄を願いによって米一五〇〇俵に切替え、翌五年には立会役所を廃して上松役所へ統合した。以降木曽材木奉行所と改称した。
 谷中の「御免白木」の残り三〇〇〇駄分は、その樹種を幾度か変更されながら延享二年(一七四五)まで存続したが、同年奈良井・藪原・福島の八ツ沢の檜原料として一八九九駄を残し、残余の分は代金一三一両三分に替えて給付されることになった。
 一方改革以後の採材制限は依然として厳しく、必要止む得ない藩用材は美濃の七宗山や裏木曽三か村の奥三浦山(みうれやま)にこれを需め、木曽山での白木類は株木や枯損木からの再生産だけに限られ、立木は伊勢神宮造営材などの一部を除き、他は禁伐の手を少しも緩めなかった。留山・明山はもとより村預け林・切畑適地においても停止木・留木とも厳しさを加えていった。このような厳重な採材制限と山内取締りが徐々に緩和されるのは、享保の改革より三〇年を経た宝暦初年のことであり、年二五万本内外の用材生産が再開されるのは更に享保以後五〇数年を経た安永八年(一七七九)のことである。その後木曽山の施業案が寛政三年(一七九一)と文政七年(一八二四)に更新され、林材生産は一進一退を示しながら幕末に至った。そして幕末から明治初年にかけて藩財政の逼迫と維新の混乱の軍事費のために施業案を無視した採材が余儀なくされたが、藩籍奉還時の蓄積量は寛文改革期のそれをはるかに上回ると推定されるものがあった。これは享保期の徹底した育成林業の成果であったことはいうまでもない。
 寛文の改革では山村家の支配から藩直轄支配にし制度の改革をしたが、藩財政の逼迫時に遭遇していたため、財政当局の反撥にあい徹底した改革の推進は出来なかった。
 享保の改革が現地住民の用益を無視してまで、厳しい規則が徹底して推進出来たのは、その立案者である時の藩老鈴木明雅や国奉行遠山彦左衛門らの実力者を後楯に、現地の当面の推進者市川甚左衛門がいたからである。