市川甚左衛門正好は、元禄六年一七歳の時に切米一七石三人扶持の五十人組に取り立てられた。その後五十人目付を経て、同一二年錦織在番となって木曽川運材の処理に当り、宝永三年木曽山元詰に転じ、その翌年上松材木奉行に進んだ。享保五年水奉行兼任、同八年郡奉行となって三か村代官を兼ね、元文五年上松に再転して木曽材木奉行となり、延享二年岐阜奉行となって転出した。その間(錦織在番の年から数えて四七年間)水奉行・郡奉行の任地にあって木曽を離れていた期間もあるが、局外にあってもなお何回となく木曽山の巡見・査察等に出向しているので、従って木曽・裏木曽山は勿論のこと領内の主要山林には、その足跡の至らざるところなしで前後四〇数年間の大半は山内の見回りに費す程の精励を励んでいることによっても、彼が山林の復興に寄せた情熱とその執念は一様のものではなかったことが知れる。またその間の褒賞が三〇数回にも及んでいることからしても木曽の画期的な林政改革が市川甚左衛門の考えと、献策によったものであることが知れる。
享保の林政改革では徹底した伐木規制を敷き、住民の用益を無視したまでの山林資源の保護対策を推進したため住民の怨嗟の的となり「木一本に首一つ」の言葉を残した。また巣山・留山の鞘かけをし、明山の地域を取り入れてその拡大を図ったことから「情ないぞえ市川様は、巣山・留山鞘かけた」とうたわれた。このように徹底した山林政策を断行したことによって、尽山と化した木曽山を蘇生させたのである。従来の掠奪的林業から育成林業への転換であったといえる。当時は自然林業の中での方策であり、後世(明治期)にみる人工造林の技術は発達していなかった。尾張藩領山で植林が試みられたのは寛政七年、裏木曽山から自然生えの檜の小苗を美濃七宗山に送ったのが初見のようにみられる。技術未熟のため苗の活着が悪く、あと続かなかったようである。山林は自然を無視しては成立しない。江戸時代の伐木は択伐で山林は自然更新であったが、宝暦期には伐木を再開するまでになり、寛政初年には施業案に基づく伐木が再開された。明治初年新政府官林に引き継がれたときには寛文期の蓄積量があったといわれる。木曽山を語るとき市川甚左衛門の功績を忘れることは出来ない。