住民の山林用益

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住民が生活上最も関係の深い山は明山である。明山と住民の用益関係は次のようになる。

[図]

 明山から住民の受ける採取物を利用面からみると、森林・柴山・草山・控林に区分される。
①森林 明山の大部分は森林であり、採取物は木材が主であるが、停止木(檜・椹・明檜・槇・〓子)の五樹種は絶対伐木禁止である。嘉永二年より槻が加えられ六樹種になった。
 留木の採取には上松の木曽材木奉行の許可を要した。停止木・留木以外の樹種は庄屋まで届出の上、これを伐採することが出来た。しかしこれは自家用であることを原則とした。木曽谷中の村のうちには薪の不足する村があり、相互間の需要を満すため村外に出すこともあったが、谷中から外に出すことは許されなかった。谷中外に出す場合には出荷手形がなくては、一駄の木材も搬出することは出来なかった。所要以外の木材を伐採しても谷中から外に売却する道がなかったから、木曽谷中住民の伐木量は谷中の需要を満す範囲の量に限られていたのである。明山内における売木の採材は、年貢木と谷中住民に許可されていた「御免白木」があったが、年貢木は享保九年に廃止になり、「御免白木」は山林資源の枯渇になるにつれ数度の変更があり、延享二年(一七四五)奈良井・藪原・八ツ沢の三ヵ所に下付された一八八九駄を残し、金に切替られ村に給付された。
②柴山 薪炭・苅敷(緑肥)の採取を主とする山である。住民の日常生活に必要欠くことの出来ない山で牛馬の飼料、田畑の肥料共に採取量の一番多い山である。かな木より薪炭をとり、柴より薪・刈敷を採取した。柴山の更に大切なことは切畑を作ることである。切畑のことは前項に詳述したが、切畑は面積を多く採り山林を荒廃させるので、藩は享保の林政改革後は厳しく制限を加え、柴山の増加を抑制する方針をとっていた。柴山の増加は森林地積の減少となるからである。
③草山 草山は草の採取地で秣場(まぐさば)(放牧地)も含んでいる。農山村にとっての草場は、家畜の飼料及び田畑の肥料用の草採取地として重要であった。草山は毎年春枯草を焼いて肥料とし、その生育を促進させるため草山焼を行った。草山焼は山火事の原因となることが多いので、野火法度によって厳重に取り締られていた。草山に薙畑を作ることもあるが、薙畑は切畑ほど多くなかったから切畑として取り締りを受けている。草山も柴山同様その面積を増加させない方針をとっていた。
④控地 控地の成因については「享保度林」の項に延べたとおり、中世木曽氏時代に祖先が武功による恩賞として下付された由緒地と、村民が切り起し取り立てた控地があり、成立当時は公法上の専有権を有していたように思われるが、木曽が尾張藩領となり山林の保護規則に関する諸制度が確立するに従って、次第に権利が縮小され後には単に私法上の権利となって、実際には他人の用益を許さぬ明山同様になってしまった。藩は原則として公には専有林野として認めないが、実際の取り扱いには相当にこれを尊重して控主の便宜を計っている。停止木・留木制限そのほか取り締りについては一般の明山と同様であった。享保九年の「享保度林」、安永九年伐潰しになった「新規立林」がそれである。
 控地の中でも柴山・草山は林でないから、そのまま個人の専有が許されていた。控地は村内の者でも控主の承諾なくして立ち入る事は出来ない。控地の交換売買は自由であったから、控地は個人の所有の様にみえるが、実際は一定の区域を独占的に使用収益する私法上の権利であったに過ぎない。控地の多くが村民同志の約束の上に成立していたので、村民同志の間ではその交換も売買も自由に出来た訳であるが、これは藩公認の処分行為ではなかった。従って控地は明山取締法の適用を受けていたもので、柴山を草山に変更するような場合でも決して控主の自由にならなかった。藩行伐木の場合にも控林であるからといって施行を差し控えるようなことはしなかった。
 山口村控の松木林を売却した享保一八年の「永代売渡証文」(山口村宮下敬三氏蔵)がある。この証文は「県史史料編巻六木曽」にも所収されている。この村控の松木立林は「享保度林」の書上の冒頭に「外かいと、林一ヵ所、松木立、半三郎」と記載されている。控主半三郎は「外垣半三郎」で庄屋である。松木林を薪に切って売り代金は村入用にあて、その跡地を新田畑の切起しに充てるというものである。これは後寛延三年の新田畑の書き上げによると元文三年から延享二年まで一〇年の計画で与右衛門の新田畑(田五畝・畑二反九畝)が開さくされている。売渡証文を掲げると次のとおりである。
     永代限り売渡申我等控之外かいと松林木数并地台手形之事
一我等控の松木并地台共ニ、御公儀様より御預り林ニて罷りあり候所ニ、村方薪ニも御願申上、松木売少々の金子ニも致、其跡は新田ニも致べく由ニ候得共、仲々夫ニてハ我等助成ニ成リ難ク候故、貴殿を相頼何とそ右の林薪ニ伐取、縦三町余・横弐町余の間の内三ツ壱分の所、成合ニ新田畑切おこし候筈ニ相極、当時金子取替我等助成ニ罷成候様ニ致下され候様ニと達て相頼候得バ、林方御合点ニて、又ハ貴殿助成ニも成事ニ候ハバ相談をも致べくカとの挨拶ニより、村中相頼右の趣ニ 御上様え御願申上候得ハ、願の通ニ仰せ付られ候故、右の林木・地台共ニ相渡、代金拾六両弐分銀拾匁只今請取申所実正明白也。
 一境目の儀ハ只今庄屋・組頭立合相改相渡申候上ハ、垣等其境目ニ成され、後々新田畑ニ成さるべく候。
 一右林の内ニ下々畑六畝拾八歩、下々田六畝弐拾歩の所、我等田畑ニて御検地請置申候通、半三郎田畑ニて御座候、
 一立野馬道の儀ハ、幅三間通永々明置申筈ニ相極控置申候、
 一後々新田畑ニおこし候共、本田えかかり申候井水へ少しも用候儀罷り成らず候、その外に井水えかかり申候所これあり候ハハ、勝手次第ニ用べく成され候、田畑おこし候より拾年相立候ハハ、御定の通り御公儀様え御注進申上、御見分請申筈ニ御願申上候、
  右の通相極売渡申地台において、後々末代子孫ハ申及ばず、外より一点毛頭かまい申分御座なく候、後日のため庄屋・組頭・村中引加え売券手形仍て件の如し、
    享保十八年                          売主庄屋 半三郎
        丑ノ年                        組頭 十三人
              与右衛門殿                百姓残らず