関ヶ原役後木曽が徳川家康の蔵入地となった慶長五年木曽谷中住民に木曽山において、白木六〇〇〇駄の搬出権が認められた。このいきさつについて『木曽考続貂』巻三に次のように記されている。
御切替
一御切替濫觴は、石川備前古例に随い、慶長五年権現様より良候公へ白木六千駄を下され候処、良候公辞して云う、「木曽は田畑少なく郷民常に食に乏しく、願わくは是を郷民に下され候様申し上けければ権現様その廉直なるを御感ありて六千駄を郷民に下され置、別に五千駄を良候公に下され候(以下略)」
と述べている。これによると、古くから飯米の不足する村柄であったので、木曽氏時代から住民の塩噌の糧に白木の採出権が与えられていた。木曽考続貂にいうような良候公の徳を賞して下付されたものではなく、古くから住民の既得権であったと思える。因みに裏木曽三か村の住民にも同様の「御免木」が下付されており、「御免木」とか「御救木」と呼んでいる。この様子からみると木曽の白木六〇〇〇駄は、年貢木を上納する住民に対する報償的なものであった様に思える。寛永四年尾張藩国奉行原田右衛門が三か村あてに発した文書に「年貢木完納を第一にし、完納が済めば、渇命のため御免木を伐り申すべく」と命じていることによってもわかる。そして山村家に下附された白木五〇〇〇駄は代官手数料として与えられたものと思える。白木六〇〇〇駄は、木曽山の資源が減少するに従って幾度か変更があった。
白木六〇〇〇駄は江戸初期には村々において葺き板・檜細工物に加工して、陸路を江戸、名古屋向に出荷した。寛文二年(一六六二)三月四日付山村役所に提出した「覚」(留帳木曽教育会蔵)に、荷物の内訳が記されているので、掲げると次のとおりである。
三月四日猪崎六郎左衛門・原弥兵衛御材木御勘定に出候節持参候書付
覚[自寛永二 至寛文四 留帳抜萃]
六千駄
この内
四千九百七十二駄は江戸筋へ出る分
内荷物の品々
二千七百四十七駄は 椹屋根板(註1)
四百六駄は 椹葺板
千八百拾九駄は 檜曲げ物・さし物其外器物諸色に成、又桶の分は椹にて出候
八百拾七駄は名古屋筋へ出る分
内荷物の品々
五百十二駄は 椹そきふき(註2)
二百八十五駄は この木曲物指物、其外器物諸色に成候て出候
二十駄は 檜ふき板
小以五千七百八拾九駄
是は毎年一ヵ村へ何程と駄数指定又は火事・田地水流・霜枯訴訟品々に寄とらせ申事に候、但し毎年六千駄迄は出し申さず候、是は子年(万治三)五千八百九十五駄、丑年(寛文元)五千六百八十三駄出候に付、両年分荷馬荷品共に概し如此候、江戸筋、名古屋筋へ出候荷馬荷品は年々多少御座候
右の外三十四、五駄宛檜の御はらい木(註3)・笠木にて、先年より伊勢・熱田(註4)へ出申候
註1 高知県野根山から産する薄板の名称、山元で生木のうちに剝ぐ。
2 椹枌葺のこと、椹を薄くそいだ板。
3 お祓いの札の木。またはお祓いの札を入れる箱の材料にする。
笠木=板塀の屋根の上に横に渡す木。
4 伊勢・熱田=伊勢神宮・熱田神宮
(表)第21表 寛文2年御免荷物出荷数
右の寛文二年の江戸・名古屋向出荷駄数のほかに、伊勢・熱田両神宮のお祓い木と笠木が三十四、五駄あった。そして万治三年・寛文元年二年度の出荷駄数が掲げられているから、これをみると次のようになる。
(表)
右三ヵ年の出荷数はどれも六〇〇〇駄に達していない。この不足数は、火事または水害による田畑の損耗、霜害による凶作などが生じた場合、村々の申請によって給付するため、救済の備として一定期間保留しておいた。しかし御免荷物の出荷手形の期限は、翌年五月限りであったからそれまでに出荷がないと無効となる。事情によっては尚向う一年位は延期が認められていたが、それ以上は延期にならなかったから「捨り木」として放棄しなければならなかった。
御免荷物は村々に割当てられ、葺き板・桶木などに加工し半製品として出荷した。寛文二年の「覚書」によると、各種葺き板が三六八五駄で六四パーセントを占め、檜の細工物が二一〇四駄で三六パーセントになっている。そして江戸向けが四九七二駄で八六パーセント、名古屋向けが八一七駄で一四パーセントになっている。
御免荷物は、江戸向が贄川番所で、名古屋向は妻籠番所で福島役所の出荷手形と荷物を照合して、木口印を黒印で打った。細工物には打たなかった。福島役所の出荷手形のない荷物は、一切通行を認めなかった。
贄川番所は一ヵ月交代で福島役所より士分の者と足軽が出向いて勤め、妻籠番所は贄川番所と同様に足軽が出向いて地元妻籠の庄屋が立合いの上改めをした。