御免荷物は初期には、白木素材のまま出荷していたと思われるが、寛文二年の覚では、椹の各種葺き板・檜の曲げ物・細工物に加工され半製品として出荷していた。その後山林資源の減少していくにつれて伐木規制が次第に厳しくなって、御免荷物もその影響を受けて、幾度か変遷を繰り返した。その様子を年次を追ってみていくと次のようである。
①寛文四年尾張藩大目付佐藤半太夫以下一六名の木曽山巡見が行われ、木曽山の荒廃情況がわかり、翌五年に木曽山の支配を山村代官から藩直轄とし林政改革を行なった。伐木規制の必要から御免荷物を廃止し、金子下附に代えるという内意があった。山村家では御免荷物の廃止は、自家の御免木五千駄にも波及することを恐れて、御免荷物の変更に不同意の意向を示した。その結果山村家御免木五〇〇〇駄、谷中村の御免荷物共に一駄に付銀三匁ずつ運上金を上納することに決まった。これによって谷中村方では六〇〇〇駄に対して三〇〇両の運上金を上納することになった。これは岡附荷物(陸上駄送)に対する運上金であったから「駒口運上」といった。
②延宝四年には山林資源は更に減少し良材が少なくなり白木の価格も下落して、利潤も少なくなったので上願し、六〇〇〇駄のうち三〇〇〇駄は檜板子一万枚に切り替えられ、川下げにて錦織湊まで出すことになった。この川下げ三〇〇〇駄を切替荷物と称した。岡附三〇〇〇駄については運上金は免除された。川下げ切替分については一五〇両を上納したが実質的には運上金は半減されたことになった。
③天和三年には、切替荷物の檜板子一万枚の採材が困難となり、檜小物榾詰五〇〇〇挺に切替えられるよう申請したが、許可にならなかった。
④貞享四年七月五日尾張藩御金奉行星野三四郎以下四名が第二回木曽山巡見を行った。この結果切替荷物の運上金一五〇両が半減されて七五両になり、一方岡附荷物三〇〇〇駄は運上金は免除となっていたが、これに七五両課せられることになった。この件は県史史料編巻六木曽に所収の宝暦九年木曽山御材木仕法留書にみえる。
⑤元禄四年になって天和三年に上願して不許可になっていた切替荷物の檜小物榾詰三〇〇〇挺が許可になった。
⑥元禄一五年になると明山は尽山の様相が深刻化し、檜小物許りにては採取困難となり、雑木を交じえての採材を許可せられるよう歎願し、檜小物にても利潤が薄くなっている上雑木を交えては更に利潤が低くなるから、駒口運上金免除を上願したがこれは許可にならず、雑木取添の件のみ許可になった。
御免荷物はこれまで杣組を頼み採取してきたが、明山内は雑木まで尽きて杣組の元締が採材を請負兼ねると申し断るようになったので、歩合を引き上げて頼み宝永五年まで漸く三〇〇〇挺の採材を続けてきた。
⑦宝永六年には小物仕出しする山がなくなり、元締は一切請合兼ねると申し至極迷惑をしているといっている。岡附荷物三〇〇〇駄は檜物細工または葺き板などで採取することが出来たが、これで山の木はなくなり、毎年五月限りの出荷手形期限までには採材は間に合わず、本年の荷物は翌年暮までに期限延期を願うほかない。その上に去年檜類が停止木となったため雑木をもって折敷曲物等こしらえたので、売値は下落し利潤は薄くなって困惑していると訴えている。本年は元締が小物の採材を引き受けてくれないので、川下げの切替荷物は出来ないから、ご大切の山ではあるが、藩用材の伐り跡のいずれかの山で、檜小物の採材を許可してほしいと「谷中宿村御免木緩和願」(県史史料編巻六所収)を宿村庄屋、問屋連名で提出した。その結果尽山となり採材不許可となったことにより川下げ切替荷物三〇〇〇駄はこれを止め、切替代として金子乾字金(いぬいじきん)にて二〇〇両向う五年間下附されることになり、駒口運上金は廃止になった。
⑧正徳三年切替代金の期限満了したが、なお引続き向う五年間(享保三年まで)二〇〇両下附せられることになった。
⑨享保四年に新金一〇〇両(享保三年改鋳乾字金)向う五年間(享保八年まで)下附させることになった。
⑩享保九年三月、岡附荷物三〇〇〇駄の駒口運上七五両は廃止された。然るところ宿村一向の利潤にならずとして、再び課せられた。
切替荷物三〇〇〇駄の振替代金の期限(享保四年より享保八年まで五か年)が過ぎたが、同年八月に至り、振替代金は宿村農民に渡さずして、庄屋らが福島出張の旅費等に充てて、少しも農民の利潤にならないとして下附金を全廃された。
⑪享保一四年四月岡附荷物の駒口運上金七五両は再び全廃になった。
同年四月切替荷物の振替代金は文金にて一〇〇両再び下附されることになった。同年一二月金一〇〇両は銀六貫目替にて三〇〇〇駄に割り、一駄に付銀二匁ずつの割に一二月二一日三十一か村に下附された。村々への割付額は次のとおりである。
「木曽諸事覚書写」(名古屋市中央図書館蔵)
一切替代百九拾三駄弐分 贄川宿
代金六両壱分ト銀拾壱匁四分 但新町共ニ
但壱駄ニ付弐匁ツヽ
一同 百三拾三駄九分 奈川村
代金四両壱分ト銀拾弐匁八分
一同 五拾八駄三分 荻曽村
代金壱両三分ト銀拾壱匁六分
一同 四拾壱駄四分 藪原村
代金壱両壱分ト銀七匁八分 在郷
一同 四拾壱駄四分 菅村
代金壱両壱分ト銀七匁八分
一同 百三拾三駄九分 宮越村
代金四両壱分ト銀拾弐匁八分 在郷共ニ
一同 五拾駄壱分 原野村
代金壱両弐分ト銀拾匁弐分
一同 四拾壱駄四分 上田村
代金壱両壱分ト銀拾七匁八分
一同 五拾壱駄壱分 黒川村
代金壱両弐分ト銀一〇匁弐分
一同 百弐拾五駄弐分 末川村
代金四両ト銀拾匁四分
一同 百弐拾五駄弐分 西野村
代金四両ト銀拾匁四分
一同 百六拾七駄六分 黒沢村
代金五両弐分ト銀五匁弐分
一同 百三拾三駄九分 王滝村
代金四両壱分ト銀拾弐匁八分
一同 八拾三駄八分 三尾村
代金弐両三分ト銀弐匁六分
一同 百弐拾五駄弐分 岩郷村
代金四両ト銀拾匁四分
一同 百六拾七駄六分 福島村
代金五両弐分ト銀五匁弐分
一同 弐百駄八分 上松村
代金六両弐分ト銀拾壱匁六分 在郷共ニ
一同 八拾三駄八分 荻原村
代金弐両三分ト銀弐匁六分
一同 八拾三駄八分 須原村
代金弐両三分ト銀弐匁六分
一同 百駄七分 長野村
代金三両壱分ト銀六匁四分
一同 百拾七駄 殿村
代金三両三分ト銀九匁
一同 百四拾弐駄壱分 野尻村
代金四両弐分ト銀拾四匁弐分 在郷共ニ
一同 五拾八駄三分 与川村
代金壱両三分ト銀拾壱匁六分
一同 弐拾壱駄五分 柿其村
代金弐分ト銀拾三匁
一同 九拾弐駄 三留野村
代金三両ト銀四匁 在郷共ニ
一同 四拾三駄四分 蘭村
代金壱両壱分ト銀拾壱匁八分
一同 九拾弐駄 妻籠村
代金三両ト銀四匁 在郷共ニ
一同 百五拾九駄五分 馬籠村
代金五両壱分ト銀四匁
一同 三拾三駄弐分 湯舟沢村
代金壱両ト銀六匁四分
一同 四拾壱駄四分 山口村
代金壱両壱分ト銀七匁八分
一同 五拾八駄三分 田立村
代金壱両三分ト銀拾壱匁六分
右の切替代金は尾張藩勘定奉行所より福島山村役所に渡された。毎年一二月に村々の庄屋が福島役所に呼び出され、槍(やり)の間において山村家の年寄衆並びに御用達役所の役人列座にて渡された。
享保一四年一二月より岡附荷物取締りに次の者が命ぜられ、手当が支給された。
(表)
右の抜荷物守りは延享二年九月二〇日廃止になった。
⑫岡附荷物は葺き板・檜物細工で三〇〇〇駄の荷物を出荷してきたが、享保二年に荷物手形三〇〇〇駄を捨りにし、その後元文四年から延享二年までの七か年分の捨り駄数は一万九四二九駄半に上り、残り手形分一五五九駄半は放棄になった。
延享三年寅年より、岡附三〇〇〇駄のうち、奈良井、藪原、福島八ッ沢の三ヶ所に下附されていた一八九九駄は、そのまま残し、二九ヵ村並びに藪原在郷に下附されていた八七九駄半は、一駄に付銀九匁ずつの割をもって金子に振替られ一ヵ年に一三一両三分と銀一〇匁五分下附されることになり、残り二二一駄半は向後廃止となった。
岡附荷物の三一ヵ村への配付金を「延享二年十一月木曽谷中三拾一ヵ村え被下置候、御免岡附荷物三〇〇〇駄の内、八百七十九駄半代銀ニて被下置請取帳、王滝村控」(県史史料編巻六)によって掲げると次のとおりである。
岡附荷物之内代金ニて頂戴之覚
一四拾六駄 贄川村
代金六両三分ト銀九匁
一三拾七駄 奈川村
代金五両弐分ト銀三匁
一拾六駄 荻曽村
代金弐両壱分ト銀九匁
一拾壱駄半 藪原在郷
代金壱両弐分ト銀拾三匁五分
一拾壱駄半 菅村
代金壱両弐分ト銀拾三匁五分
一弐拾三駄 宮越村
代金三両壱分ト銀拾弐匁
一拾四駄 宮越在郷
代金弐両ト銀六匁
一拾四駄 原野村
代金弐両ト銀六匁
一拾壱駄半 上田村
代金壱両弐分ト銀拾三匁五分
一拾四駄 黒川村
代金弐両ト銀六匁
一三拾四駄半 末川村
代金五両ト銀拾匁五分
一三拾四駄半 西野村
代金五両ト銀拾匁五分
一四拾六駄 黒沢村
代金六両三分ト銀九匁
一三拾七駄 王滝村
代金五両弐分ト銀三匁
一弐拾三駄 三尾村
代金三両壱分ト銀拾弐匁
一三拾四駄半 岩郷村
代金五両ト銀拾匁五分
一四拾六駄 福島村
代金六両三分ト銀九匁
一三拾六駄 上松村
代金五両壱分ト銀九匁
一三拾弐駄半 上松在郷
代金四両三分ト銀七匁五分
一弐拾三駄 荻原村
代金三両壱分ト銀拾弐匁
一弐拾三駄 須原村
代金三両壱分ト銀拾弐匁
一三拾弐駄半 殿村
代金四両三分ト銀七匁五分
一弐拾七駄半 長野村
代金四両ト銀七匁五分
一弐拾三駄 野尻村
代金三両壱分ト銀拾弐匁
一拾六駄 野尻在郷
代金弐両壱分ト銀九匁
一拾六駄 与川村
代金弐両壱分ト銀九匁
一弐拾五駄 三留野村
代金三両三分
一弐拾五駄 妻籠村
代金三両三分
一六拾五駄 蘭村
代金九両三分
一四拾四駄 馬籠村
代金六両弐分ト銀六匁
一九駄半 湯舟沢村
代金壱両壱分ト銀拾匁五分
一拾壱駄半 山口村
代金壱両弐分ト銀拾三匁五分
一拾六駄 田立村
代金弐両壱分ト銀九匁
駄数〆八百七拾九駄半
代文金〆百三拾壱両三分同銀拾匁五分(後略)
岡附荷物は右のように金子支給に切替えられ、先に金子支給になっていた川下げ切替荷物代金と一緒に毎年一一月中に山村役所から村々に支給された。この様子を宝暦六年の文書(外垣留帳)から掲げると次のとおりである。
一筆申入れ候、村々え下され置候切替代、檜荷手形代并に問屋給下され置候御金相渡候間、宿並は両問屋の内壱人、年寄壱人、在郷は庄屋壱人、組頭壱人来る廿二日四ツ時役所え罷出候、
山口村の受取覚
御切替代
一文金一両一分ト銀七匁八分
御手形代
一文金一両二分ト銀十三匁五分
右〆金三両ト銀六匁三分
内
銀六匁三分 福島路用并福島にて割符入用
残て金三両村中え割符
村中小判書付ニ通
右は当年分御渡し村中寄合相違なく割符仕候、後日為請取書付此の如に御座候以上
子十一月二日 惣百姓代 治郎右衛門
同 又十
慶長五年家康より谷中住民に免許された白木六〇〇〇駄は、山林資源の減少につれ、幾度か変更されて、延享三年(一六四六)後は、金子支給に振替えられて支給された。明治四年十一月に両方とも廃止された。