享保の改革では、寛文の改革以来の山林規制に加えて、年貢木を廃止して米納に切換え、切畑の制限、藩用材も檜類立木伐採の停止、谷中住民に免許された白木六〇〇〇駄の金子支給振替など、谷中住民の山林用益を無視した全山封鎖にも等しい苛酷な諸政策が強行された。享保の改革はこれまでの消極的な伐木規制にとどまらず、尽山と化し荒廃した山林の蘇生を図り、山林資源の恒久的保続を主眼としたものであった。
伐木後の山林の復旧には一般的には植林が考えられるが、山林の立地条件により植林には不向きな山地がある。木曽の山は花崗岩地帯で急竣であり、岩石の上にわずかの腐植土が堆積しているような山地が大部分であったから、植付して根付いたとしても、木曽の檜は六尺に育つのに普通一〇年かかるといわれる程成長が遅いから、折角の苗木は自生の熊笹や灌木に圧倒されてほとんど育たない。従ってこのような山地の皆伐のその跡へ植林しても、植樹後の下刈りを何年となく継続しない限り林業的に成果は上らない。木曽山の大半はこのような山地に該当する。
享保一一年(一七二六)福島の関所の周りへ杉苗四〇〇〇本、宇山へ檜、椹苗一万本を植え、同年更に遠山彦左衛門より山村甚兵衛に対して、漆を始め檜、椹、桐の植裁を強く要請し(山村家「留帳抜萃」)、明和五年(一七六八)には湯舟沢山へ杉苗五〇〇本を植付させ、安永元年(一七七二)にも杉、栗、桐苗を植付けさせている。
天明六年一〇月一八日山村役所は、尾州より申し渡しがあったとして、村々に次のように達している。
回状を以て申入候、木曽御山内木種払底に相成候に付、今般御材木御役所え檜類并に雑木共に木種の植付方仰せ出され、当年より御本切の跡は場所により、切株毎に必らず苗二、三本つつ植させ候筈、其の外御本伐これなく所にても欠場所には見計らい、檜雑共苗植させ候筈に候に付ては、谷中村々の者共此段承知仕り、すべての檜雑の小生え粗末に仕らず、随分育置候様仕るべく候、木曽谷中の儀は全体木立多き土地故、自然の風にて右躰小生えはわけて粗末に致候様子に候、御山内木種払底に付後年のため、植木仰せ付られ候程の御時節に相成候故、一統能々承服大小木共に、猶更大切に存上候様精々申渡候、
一右の通宜場所には、追々見立植申べく候得共、草山其の外差障りにも相成べく所は、吟味の上相除置候筈、
一植方に苗払底の所にては、見計い実蒔をも申付、又は小生え取集等の儀取計させ候筈、御入用は勿論御材木方より相渡申べく候得共、品により谷中庄屋役人共え不時に申渡候節、模通宜諸事指支えず候様相心得候様、
右の通り申渡べく尾州より仰せ出され候、
右の触書は木曽だけでなく、裏木曽三ヵ村、美濃領七宗山にも達している。天明七年太田代官所から裏木曽三ヵ村に、七宗山に植付する檜、椹の苗を取り集め送付するよう申し渡している。当時は植林技術が進んでおらず、山に生えている天然の実生稚樹を抜いた苗で、苗圃において植換培養したものではなかったから活着が悪かった。それに加えて、下刈管理がされなかったから熊笹や草荊に圧倒されて失敗に終り、効果は上らなかった。弘化四年一一月木曽材木奉行所から尾張藩に提出した文書に、「天保一一年子年に檜苗を濃州裏木曽川上村の砂子畑と上松小川伐畑跡に植付方取り計い試した処、追年枯木に相成り、費用のみ懸り、掘取った苗の木数だけ山の木が減るだけのことにて、ご用には立たないからこの上の植付方は差止められたい」と報告している。また人工植林したものは成長して伐木適期になって、木心が腐朽して材木になり難いとして嫌われた。この様に山林復旧の方策として植林が各所の山林に試し植されたが、林業的成果は期待出来なかった。
前述した木曽山の立地条件を克服して、山林の復興に成功するのは、植樹による人造林法に代る択伐による育林方法が、木曽山に普及していったためである。これは伐木の際、立木を抜き伐りして未成熟の樹の樹木(径七寸以下)と稚樹を残して、これを保護育成し、また立木の下方から枝張りして材木にならない大本を残して種木とし、山林の天然更新を図る方法である。伐木時に稚樹を傷めないようにするには技術的に困難はあるが、一定の木材事業を満しながら植林の手数を省いて、更新を図ることが出来るのである。寛政三年施業案に基づいて伐木が再開されるようになったが、施業区域の伐木をする木に縄を結び付けて目印にした文書があるが、残し木を保護して択伐する方法であったとみられる。
「御料林」の自然林に入った者が、二〇〇年を経過する立木の年数が揃い、その間隔が林学上よりみて合理的になっていることに驚いたというが、藩政時代の自然育林法が合理的なもので、これが木曽の美林を現出したのであった。