木曽には他領に通ずる道に白木改番所が設けられていた。北の出口には、贄川宿の北端江戸よりの入口にあった。天正七年(一五七八)一一月一六日付の武田勝頼条目案(諸州古文書)に「信越の境并に妻籠口役所申付べく事」とある。秀吉の時代に石川備前守の支配中にも、贄川番所が設けられていた。右の信越の境は贄川番所であり、妻籠番所とともに天正七年には設けられていたことがわかる。
贄川番所は、関ヶ原役後の慶長年間福島の関所が設けられると、その添番所となった。初めは山村氏の私設であったが、寛保元年(一七四一)幕府より公認せられ「諸国関所改方覚」に載っている。これは福島関所を通らない飛驒路から往来する女改めをしたが、白木の移出を取り締まる白木改もした。
妻籠番所は、初め口留番所として鯉野にあったが、福島番所が出来てから後下り谷に移り白木改番所となった。その後寛延二年、一石栃に移ったことが「木曽谷諸事覚書」にみえる。
寛延二年巳四月、下り谷御番所大道へ小山の沢崩れ込に付、右御番所一石栃へ所替仰せ付けられ候、是によって一石栃御百姓清六と申者の田地へ御番所、新規に御普譜仰せ付けられ候、奉行芦沢忠左衛門一人して相勤候、定番御足軽尾谷市左衛門唯今の一石栃御番所是也
この一石栃番所定番の扶持は、「木曽谷諸事覚書」に次のように記されている。hb
そのほか、寛文五年木曽山の支配が尾張藩直轄になると、番所は上松材木奉行所の管轄下に入った。同年平沢にも番所が新設され、同九年には落合渡場にも設けられた。この二ヵ所は享保四年(一七一九)三月四日に廃止になった。後弘化三年(一八四六)には、飛驒に通ずる奈川村川浦・大白川の二番所が設けられた。
木曽から出る白木・製品には、奉行または山村家年寄の手形がなければ、一切番所を通さなかった。こうして盗伐を防いだ。宝暦一〇年山口村百姓が蘭村山において自家用の屋根葺き板を調製し、それを山口村に運搬するため山口村庄屋が、「右の者共板かへし仕候に付、随分詮儀申候所確か成る儀に候、壱束壱枚も外え出す儀にて御座なく候、屋根葺候時分は見分候てふかせ申候間、御手形下さるべく候」として、山村家勘定所に手形下附の申請をしている(宝暦一〇年外垣留帳)。これに対して山村役所から、次のとおり手形が下附されている。
(表)
右是は、山口村の者共蘭村にて板調え屋根葺替仕度由、両庄屋書付を以って相願候間束数相改、来る三月中迄に相通しなさるべく者也
宝暦十年辰二月 松 十太夫
沢 与惣左衛門
磯 六右衛門
壱石栃御役所