山林取締りと盗伐

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木曽山に伐木等の規制が敷かれるのは、鷹が巣を営む山林の一定区域を巣山に指定し、住民の立入りを禁止し、伐木禁止にしたのが始まりと思える。その時期は定かでないが、慶長一六年山村良安が岩郷村にあてた「定」に、巣鷹の条があり、「巣鷹はこれ以前より」とあるから慶長一六年にはすでに巣山指定がされていた。慶長以来の濫伐が続行するなかで、これを憂いた国奉行原田右衛門は寛永三~四年(一六二六~二七)にかけて、裏木曽三ヵ村に山林取締りの文書を矢次ぎ早に発している。年貢木・御免木も奉行にみせ、奉行の許可なき伐木は一切禁止するとし、三ヵ村山の管理を村預けとし違背者が出たときは庄屋の責任にすると申し渡している。寛永二一年には上松山ほか九か所の山林から白木(土居・榑)の採取を禁止した。こうした山林事情の中で、寛永一九年に王滝山内で許可なき伐木の切株が多数発見された。王滝村松原彦右衛門が、裏木曽三ヵ村・飛驒領の村あてに盗伐者の「せんさく」を注進し捕縛を依頼している。盗伐者が手遠で捕えられないときは、鉄砲で打殺してもよいと申し付けられたとしている。
 その後も濫伐は衰えることなく山林資源は減少の一途をたどっていくなかで、一方山林取締りは厳しくなっていった。寛永四年「盗み伐り・隠し売り」を禁じた法度は、以降山林資源の減少につれ、常用法度となった。
 明暦三年(一六五七)裏木曽三ヵ村は「御山内御取締筋ニ付一村連判帳」と包紙の請書(付知町・田口慶昭蔵)を差し出している。
 
       差上申一札之事
 一御公儀より仰せ付けられ候御法度の通り、毎年百姓中連判手形仕り指上候へ共、祢々御山御材木の儀枝葉・木の皮にても、少しも盗み売買仕候と訴人御座候はは、本人は申すに及ばす十人組の者共、何様の曲事にも仰せ付けられるべく候
 
 限りなく打続く濫伐のため尽山と化していく山林資源保続のためには、このまま放置することは出来ず、なんらかの方策を講じなければならなくなった。寛文四年藩は大目付佐藤半太夫以下を木曽・裏木曽山に派遣して巡見せしめ、全山くまなく調査をさせた。その結果翌五年これまで山村氏に一任していた木曽山・木曽川の運材管理とも藩の直轄となし、上松材木奉行を置いて山の管理を、錦織川並奉行を設けて木曽川運材管理を支配させた。
 その後も木曽巡見を行い、留山・巣山の地域拡大、川並番所の設置、檜類五種樹木の停止木指定、留木の指定、検地を行い年貢木廃止して米納切替、御免白木の切替、切畑の制限など、山林規制と地方(じかた)の改革一体となって、山林資源保続のため採取林業から、育成林業の転換へと抜本的な改革を進めた。このため住民の山林用益を無視した厳しい改革となった。こうした厳しい山林規制の裏には、盗伐する者も出た。寛文改革以来の文献の上に現われた盗伐を掲げると次のようなものがある。
① 寛文五年三月湯舟沢村巣守の権三郎らが、村役人に注進した槇皮剝盗人の注進状がある。
  万治二年四月、甚蔵山にて槇皮剝三人権三郎発見、
         岩野沢山にて槇皮剝六人、小屋掛をして皮はぎをしているのを権三郎・二郎八発見、
         常生坊山にて槇皮四人、小屋掛しているのを権三郎発見、
  寛文二年九月 後藤沢にて槇皮を背負い来る者二人を権三郎発見
         若木立山にて明檜皮を背負い来る者一人を権三郎・徳左衛門発見
 右のように注進しているが、これらの盗人は村外の者である(名除く)。皮は火縄銃の火縄として、また湯舟や船の水漏込材として珍重された。運搬等の便宜から他領境の山で盗伐は横行したようである。
② 寛文九年一二月二八日蘭村権右衛門が槇皮・檜皮盗剝取して処刑され、孫兵衛・清右衛門が所払いになった後村役人一同連署で下代官広瀬九郎右衛門に誓約書を提出している。
 右の蘭村百姓権右衛門が皮剝盗取り極刑に処された事件は、盗伐刑の代表的なものとして諸書に取り上げられている。この一件は、「御日記」寛文二年二月二九日の条に「自今以後槇は(皮)た盗取まじく旨」の申し渡しに違背し槇皮を剝取った事件である。『[自寛文九巳酉 至延宝元癸丑]留帳抜萃』所収に、寛文九年七月一一日、国奉行佐藤半太夫・遠山伝十郎・小山市兵衛より来候状に、「然バ先日申進候蘭村権右衛門儀、御法度の槇皮をはぎ盗申に付御成敗仰せ付けられ、首は蘭村に懸候様に仰や渡らせ候間、廿一日蘭村迄権右衛門御引出させ成さるべく、御報次第此方よりも検死并に廿一日に蘭村へ参着致様に指遣るべく候、権右衛門妻子の儀は、御領国中御追放仰せ付けられ候間、右妻子ども権右衛門と一緒に蘭村へ遣さるべく候、御追放の儀は、権右衛門御成敗の上にて、此方の検使の者に申し渡しなすべく候」とある。
 山村役所は、木曽の住民の成敗に際して、これまで藩から役人の派遣はなかったのに、権右衛門の場合は訴人が名古屋表にあって詮議されたことであるから、その様にされても結構であるという、不満の意を込めて回答している。『木曽谷御事覚書』に「寛文九年蘭村百姓権右衛門と申す者、見せしめのため贄川より妻籠まで引廻の上、同年七月廿一日居住地である蘭村において、死罪獄門という極刑に処せられた。妻子はそれを見せられた上で、尾張領外に追放になった」とみえる。
③盗伐にはこうした極刑が行われたにも拘らず、同年一二月二八日蘭村肝煎・組頭連名で、下代官広瀬九郎右衛門に指出した白木・槇皮剝等法度請書(前掲)によると、兵四郎が法度に叛いて欠落し、その後また孫兵衛・清右衛門が法度に叛いて永代所払いになった。これについて村役人一同は、この上村に違反者が出たときは、肝煎・組頭一同、同罪に仰せ付けられても恨は申しませんと誓っている。
④盗伐に対する死刑の例は、延宝三年湯舟沢村徳左衛門が留山内で、槇皮を大小一三三二本にわたり剝取った事件があり磔刑(はりつけ)に処せられている。
⑤延宝七年に田立村にて槇皮剝があり、田立村百姓五、六〇人が見回りした処、盗伐人六人を発見して追跡したが、捕えることが不可能と判断し、一人を鉄砲で打殺し一人を弓で射たところ手向かったので斬り殺した。裏木曽三ヵ村に連絡したところ、川上村から二人が見にきたが該当者がないといい、付知、加子母村では見るまでもないと返事があったので埋葬した。
 江戸初期の盗伐刑は、地域住民にみせしめのため、盗伐した現地において斬首獄門・磔刑(はりつけ)獄門の極刑が行われ、その家族は尾張藩領外に所払い(追放)となるのが通例であった。