山林における盗伐など犯罪事実が村民によって発見されると、山村家の用途役所と上松の木曽材木奉行所との両方へ申告される。木曽材木奉行所は、犯罪によって山林のうけた被害の調査に当たるのが本務で、犯人の捜査逮捕は山村役所でなされた。福島には賤民が交代で看守する牢の設備があり、過怠牢舎に処せられた。既決囚とともに未決囚もこれに収容された。過怠牢舎は一定期間牢に監禁する刑である。これらの牢扶持(入牢者の食費・看守人の給与も含む)は、一定期間(初めは一〇〇日、文化五年より一八〇日間)は犯人の居住地の村が負担することになっていた。村から犯罪者を出すと村の負担がかかるから、村々ではなるべく犯罪を出さないようにしていたといわれている。
裁判は山村家の管轄するところであったが、その裁判は木曽の村に人別(籍)のある者に限られ、木曽谷中以外の者については、山村家の権限外で名古屋送りにした。
山村家の専決出来る刑は、初めは無制限であったが、尾張藩主綱誠(つななり)の元禄年間に死刑は、その都度藩に伺いを立てるべきこととされ、その後の元文五年(一七四〇)には、追放刑までに拡大された。その様子を『享保五年庚子御状留』のなかの一一月の「覚」は、「木曽谷中の儀、古来より御仕置の儀、死罪迄も仰せ付けられ吟味を遂げ申付来り候処、泰心院様(三代綱誠)御代、祖父甚兵衛(良忠)へ仰せ付けられ候は、死罪の儀は向後相伺候様こと仰せ付」といっている。山村家は、木曽者の犯罪で死刑・追放を除いた軽科についてだけ、裁判し判決を下すことが許されたのである。
木曽山における山林窃盗について、先に初期の盗伐についてみてきた。享保の林政改革後は、それ以前に比して山林に関係する規制は拡大されて細部にまでわたり、取締りは厳しくなった。規制に対して村々では遵守すべき旨の誓約書を絶えず出している。『県史史料編巻六木曽』にも関係文書が幾つか目につく。これらの犯罪に関する文書をみると、盗伐・背伐・山火事の語彙が出てくる。『尾張藩公法制史の研究』(林董一著)は、盗伐と背伐(そむききり)の二語は、史料上しばしば混同して使用されているが、法的にはこれを区別しなければならないとして、次のように述べている。盗伐は巣山・留山に侵入し樹木を伐り取りする行為をいい、背伐りは明山その他で停止木を伐採する行為をいう。留木を違法に伐り取りすることも背伐りといえる。盗伐と背伐との、この概念的相違を法的に明確にしたのが、弘化二年(一八四五)一〇月の「木曽并びに美濃三ヵ村三浦山盗伐等御仕置御定」である。文書に「御留山にて盗伐いたし候者」とか、「明山内にて御停止の木品等背伐いたし候者」と表現している。
また山林窃盗以外に、山林窃盗として、山火事・切畑取締違反などがあり、それぞれ処罰されたことが、「木曽山村留帳抜萃」の中にみえる。
木曽における山林犯罪は「檜一本に首一つ」とうたわれ恐れられたように、極刑に処されている。これらの判決は先例にならい、または前々からの判決が重視されてのことによるものであった。「木曽山林沿革」に、「実ニ刑事ノ制タル一ノ法律アルニ非ス、其取扱人ト慣行等ニ依テ適宜ノ処分シタルモノナリ、何トナレハ巣山留山ニ於テ盗伐アリ、犯人捜査ノ末此ノ処分ヲ講シ、先年何々ノ事件ニ付死刑ニ処シタル例アリ、依テ盗伐ハ死刑ニ処シ然ルベクト山村家ニ於テ意見ヲ呈ス、尾州其例ヲ採用シ死刑ノ指図ヲナス等コレナリ」といっている。
このように体系的に成文化されずにきたが、弘化二年一〇月「御仕置御定」が初めて制定された。
県史史料編巻六所収「王滝村請書」(徳川林政史研究所蔵)を掲げると次のとおりである。
(表)
享保の改革後は山林資源保続のため、藩の伐木も停止同様となり木曽内の杣組も失業状態になった。こうした中で住民に対して、山林規制の指令が絶えず申し渡されている。「県史史料編巻六木曽」に、次の村々の請書が所収されている。これらの請書は、谷中の村々に共通するものであるが、その一部に過ぎない。
(表)
寛保三年八月一九日付「上松御役所被仰付村中え申渡帳」を表書の王滝村庄屋松原彦右衛門控の文書がある。これは上松奉行(林次右衛門・市川長左衛門)より廻状を以て次の様に申渡されている。
急度申入候、諸山御注文御材木大川狩の儀、近年川不足多くこれあり候、尤木曽の儀は不届もこれある間敷事候得共、下川並の儀は他領多くこれあるに付失木これある哉、然所去年より山口に中渡場(綱場)仰せ付けられ、上川の分右山口にて着木数相改候所、上川の不足も多く、殊に去年野尻山小物御材木山口迄程近く、不足これある間敷所、存外の失木大分に候、右の通りに候得ば、上川並に不届者これあり、失木の大分と相見へ候に付、当年より大川筋は勿論、小谷入山本迄も廻り、御足軽鉄砲持参昼夜見廻り仰せ付けられ候、若不届き品これあるに於いては鉄砲打懸け、又搦捕申すべく候、川越候は、鉄砲放し申すべく候間、此旨承知致川並宿村并小谷入在々迄洩さず様に相触れ、面々承知致しなし相慎、勿論御材木川狩これある節は、川端え一切立寄申さず様に申し付べく候旦亦細工木と相見夜中馬附又は背負候て通行致候様に相聞候、甚紛敷相見へ、廻り役人夜中出逢候は急度吟味致べく候間、向後夜中に通行致さず様に申し付べく候、
右の趣承知仕候はは、村下に印判を押し先々を相廻し、納所より御役所え差戻べく候、尤其村の小百姓等迄庄屋元え呼集、此趣急度申渡し、何れも印判取置申すべく候、
右の申し渡し文書によると、野尻山から搬出の材木を山口の綱場で調べたところ、失木が多数発見された。山口より川下では他領境に接しているので失木はあったが、木曽地内においてこのような失木はなかった。木曽地内において失木が生じることはあるまじきことであるから、当年から小谷狩とも監視をすることになった。各村々とも慎しみ疑のかかるような紛らわしいことはしないことを申し渡し、村民の請書を徴して置くように申し付けている。右の文書は上一四ヵ村に回付された文書であるが、上松村より下村も同様であった。
また宝暦元年一一月裏木曽三ヵ村には、「三浦山・三ヵ村山守」内木彦七が、「停止木のうち不良木は伺の上、住民が自家用に供していたが、紛らわしきに付差留」と申し渡し、勝手に川木の端木を拾うことも禁止し、檜類の材料木など、すべての端切れ木を他村の親類から貰うことも、所持すること一切、「紛らわしき」として禁止してしまった。こうした厳しい取締まりにより、寛政のころになると日常生活用の箸木やそのほかの材料に窮した村民の間では、盗伐・背伐り・川木の隠得など違反者が出るようになった。
川並の取締りが比較的緩やかであった寛文年代には、川筋の他領内では盗木が公然と行われていた様子もある。
享保の改革後、尾張藩の取締まりが細部にわたって厳しく達せられるようになると、川筋を境にする他領に対しても、川並取締まりについて強硬な申し入れをしていた様子がみられる。川筋を境とする隣村の坂下村には、寛政年間の川狩中盗木に関する庄屋文書がかなり残っている。これらの文書を披見すると、木材盗取り一件に付いて苗木藩奉行所と坂下村庄屋の間に数通の往復文書が交わされており、徹底した取調べが行われている。苗木藩においてこのような綿密な取調べを行っていることは、尾張藩の強い要請によるものとみられる。一方尾張藩としても、川筋の他領村における盗木を見逃すことは、自領民に対する厳しい取締まりの上からも放置しておくことは出来なかったのである。
享保後の伐木抑制が続いている明和元年六月、裏木曽三ヵ村に「百姓家作の儀惣触」が達せられ、建替・新築の場合には、家作届を木曽材木奉行所に提出し、家作の使用材料の見分をうけ、許可の上でなければ建築することは出来なかった。そして完成すると完成届を提出して、停止木の使用有無の見分をうけた。また木材に色附することは木種の分別の妨げになるとして禁じられていた。古材の停止木を使用する場合は、停止以前(宝永五)使用の境が明確にならなければ使用は出来なかった。このような厳しい規制の中で、戸障子など檜類を必要とするものもあり、このため、敢えて背伐りする者も出たようであった。山口村には家作申達書の類は見当たらない。
外垣諸事留帳嘉永二年正月二五日の条に、「郷蔵屋根葺き替」について福島奉行所に願い出た一文がある。「福島役所中村伴吉殿・渡辺林助殿に願書を差し出した処、至って木品も払底に相成り、尾州よりも格別に仰せ越候聞、まずまず先観の通り萱葺にて差置候様に仰せ付けられ候、尤山口村などは、御材木方御役人等通行の場所故、若彼れ是れ申し出も宜からず、此方役所にていじ悪く申し候にはこれなく、尾州えの聞えも如何に候えば、萱葺方然るべく哉な仰せられ候」として、板葺きに葺き替えることは、許可にならなかった。山口村絵図(宝暦年成立)をみると、川並番所・郷蔵・光西寺など萱葺きに描かれている。
これまでにみてきた山林規制の法度や川並法度には、そのつどに遵守を誓って村中連判して請書を提出しているが、毎日山を見、木曽川を搬出される夥しい材木を目の前に見ながら、実生活の面では桶・戸障子など生活用具に一片の檜類の使用も自由にならぬことは、木曽山の住民として堪えられなかったことであろう。こうした過酷な生活事情の中で、盗・背伐りは跡を絶たなかった。『県史史料編巻六』に盗伐・背伐りの文書が所収されているが、これはほんの一部に過ぎない。参考までに掲げると次のとおりである。
1 元文元年薮原村檜盗伐人吟味に付荻原村差出証文
薮原村の者九人が巣山・留山内に切込み盗伐したとして調を受け、根木・枯木の分は盗んだが檜二本の伐り取りは知らないと主張して白状しないので、盗伐木の搬出を見た者は村民のうちにいなかったかという取調に対して村民のうちには見た者も、隠置している者もいないことを誓約した証文である。
2 安永九年五月、妻籠村勘右衛門等留山堀木咎赦免に付差出証文
妻籠村八人の者が、木屋場沢丸山留山内で竺木の材料を掘木して村追放に処せられたことについて、後悔しているので、村帰参を願いたいと願出。
3 天明四年、王滝村川狩御材木盗人、川狩中の材木盗人村預り願
滝越山から小谷狩中の材木二本を盗み隠したとして、入牢に処せられたが、当時は凶年にて困窮の時節の事故村預りにされたいと願い出。
4 天明七年八月 王滝村背伐入牢人長八家内役人赦免願
背伐し入牢した長七・茂右衛門は牢死したが、家族はその後も謹慎中であるから、赦免し村預けにされたいと願い出た。
5 文政五年二月、谷中宿村荻原村背伐人罪科軽減願
荻原村抱沢山において檜類背伐りについて取調を申し渡された件について、罪科の軽減を湯舟沢村はじめ二〇ヵ村の庄屋・組頭連署で「右躰不埒成る儀出来仕り、一村潰に及候儀眼前に相成、其以って難渋至極仕り候段相歎候間、至極恐の御願には御座候得共、御憐憫の御慈悲を以って軽く御免下され置候様願上奉り候」と歎願している。
6 天保七年一二月 長野村背伐取締連印請証文
天保六年長野村明山において背伐りの跡が発見された。以後一ヵ月に一度は山内回りをして、このような犯罪の起こらないように慎しむことを誓約した村中連名の請書である。そのうちに家作に関する次の一条がある。「御願済の上銘々居宅を立直し、そのほか造作等いたし候者は、木品等御改を請け御差図に随い取掛り候様仕るべく候」とある。裏木曽三ヵ村には、木曽材木奉行所の「三浦山・三ヵ村山守内木彦七」の家作に対する申渡書は文化一一年(一八一四)の一七か条、弘化三年の二五条がある。これには家作材・土木・用水普請材の木品使用の取締まりについて規定をしている。木曽谷中の村々にも上松役所から同様の申し渡し書が発せられていたと思われるが原文が見当たらない。右の請書中に「木品等御改め受け御差図に随い取掛り候様仕るべく候」とあるのは、これに類する申し渡しと思える。
享保の改革後の盗伐・背伐りは、前述にみてきたような山林規制の下で、生活に密着した面での停止木・留木に関する犯罪であり、江戸初期に極刑に処せられた売木を目的とした大型のものとは異なっているようにみえる。しかし動機や行為の内容は生活上にかかるものとはいえ、犯罪には変りなく許されるべきことではなかった。