これまでに木曽内の山林犯罪についてみてきたが、江戸末期になると山口村・馬籠村ともに他村と同じような山林犯罪が起きている。しかしこれらの一件を扱った福島役所・木曽材木奉行との関係文書が見当たらないので事件の内容を詳細に知ることは出来ない。山口村外垣庄屋諸事留帳・馬籠村大黒屋日記の記事によって掲げることにする。事件の該当者の名前は伏字にする。
寛政九年度山口庄屋外垣諸事留帳に次の記事がある。
正月四日、南野儀平参り申し候は、拙者組内□□真松を伐り門松に飾り候に付、御調仰せ付られ、拙者よりも相調候処、何心なく切り門松に仕り候と申す儀に候得ば、宜敷御勘弁御用捨下され置候様御願申す旨、また一色藤兵衛も□□同様の事にて拙者方に参り御願い申上くれ候様に申す。
右の門松の取締まりについては、宝暦一二年一二月九日の触書に「栗・松生木、本伐の儀例年仰せ出されの通り祢堅相守り、門松の儀も本伐りは堅仕らず、前々仰せ出され候通り、枝木相用べく候、万一相背候者これあり相知れば急度曲事に仰せ付けられ候間云々」と達している。
また同帳に次の記事がある。
五月一日、□□□きびう神明の森の椹榑木断り申さずに持来り、田所の畦などに使候由、これに付平左衛門殿(楯庄屋)よりも沙汰これあるに付、組頭長六を招き、内吟味致し見る様に申遣す。
五月三日、北垣戸長六、きびう作吉来り申候は、この間相聞かれ候□□□神明森椹持ち参り候儀、組合の者打寄吟味致し候処、不調法不届に御座候間何卒内証に御済し下される様にと申候に付、いずれにも平左衛門落合に参り留守に付帰り次第申合せ長六方へ申遣すと、申遣す。
五月四日、平左衛門と相談、表立ち罵り候へば難渋にも候間内証にて相調へ候と、名目を付け代金三分位受取相済候方然るべく候、
時代が降り江戸後期になると、村方からの諸種の材料木伐木願には「山内木品払底に付」という理由の下に、聞き届けられず却下されることが多くなった。天保四年正月猿投神社屋根葺き替の材料木杉二本の伐木を願い出た文書が「外垣諸事留帳」にある。
乍恐奉願上候口上
一当村猿投明神社堂屋根、年久敷破損罷り成り仕り候に付、今般葺替仕度存じ奉り候間願の通り仰せ付下され置候様願上奉り候、右木品の儀は猿投明神森の内にて杉弍本元伐り御免仰せ付られ下され置候はば、右木品を以て社堂葺替仕り度御座候間、宜敷仰付られ下され置候様願上候、右木品左に
一杉壱本 元口三尺壱寸程
一同壱本 元口二尺八寸程
〆本数弍本
右木品御見分の上、元伐御免仰せ付られ下され置候様願上奉り候
天保四年巳正月 山口村庄屋両人
組頭四人
御奉行所
附 右願に正月廿六日出立平左衛門福島へ罷出候
右願に付福島へ罷出候処、杉巨材の儀は、此節御大切に思召され候に付、御免これなく願書御指戻これあり候
杉は停止木でも留木でもなく規制外であったが、幕末ころには巨材が少なくなり、大切ということで伐木許可にならなかった。
このように山林規則が厳しくなる中で、一方では村々に背伐りがしばしば起きていたようである。大黒屋日記外垣諸事留帳に背伐り取締りに関する記事が載っている。
大黒屋日記天保一一年一一月六日の条に、次の記事がある。
背一件に付宿村御廻村の為、上田武助様・今井蔵之助殿・小倉半右衛門殿出張これあり、一統印形仕候
また天保一二年外垣諸事留帳に、背伐り取締りのため福島役所材木方役人が来村して、賤母山をはじめ草山・地先まで見分し背伐り取締り対策について指示をし、村から差し出した次の一札が載っている。
指上申一札之事
一御山内并草山・地先背伐り御締り方、至って厳重に仰せ付られ御座候、猶更御百姓共、友吟味仕り、賎母御山内の儀組頭四人御百姓共拾人つつ替るがわる度々内廻り仕り、若怪しき者御座候はば早速御取調御注進申し上べく候、其外村役人并御百姓共、平日共に油断なく御締り方御大切に相守り申すべく候、惣て御山内は申し上げるに及ばず、御預林并地先等に至るまで急度相慎、怪しき儀御座なく候様慎て相守申すべく候、
右は今般御山内背伐り御見分に付、村内締り方御尋遊ばされ候間、御達仕り候処、この如く相違無く御座候、
天保十二年二月 山口村庄屋両人
組頭四人
右の大黒屋日記天保一一年一一月六日の記事、外垣諸事留帳の一札によると、尾張藩が背伐り取締りを強化し、山村役所に対して村々の実情を調査させた様に思われる。この調査を踏まえて翌天保一二年には尾張藩では福島役所と出合のもとに木曽村々の背伐り取締りに乗り出した。大黒屋日記天保一二年五月の記事にその様子がみえる。福島役所材木方と尾州方の役人が同年五月八日山口村で合流して下の方から回村を始め上の方に向かった。この一行を「背伐り御吟味奉行」と称している。大黒屋日記の記事を掲げると次のとおりである。
五月八日背伐り御吟味のため御立合、福島より永井六郎左衛門殿、下役市川庄兵衛殿、千田傅十殿当宿昼休にて、山口村御泊まりに御越なされ候、尤尾州方山口村へ同日御入込成され候、
同一二日背伐り御吟味に付、お氏神社に下調申聞仕り候、
同一三日背伐り御吟味奉行山口村より湯舟沢村へ御越し遊ばされ候、
同一六日背伐り御吟味御奉行、同日当夜御泊りに御入込遊ばされ候、尾州方本陣、御立合福島方八幡屋、
同一七日背伐り本陣上段前庭え一同呼出にて御吟味御座候、
同一八日仙石讃岐守様当宿御昼休にて、暫の内御吟味延引相成申候、尤尾州方蜂屋へ御引移りに相成申候、
同一九日背伐り御吟味口書御読聞、調印相済候、尤当宿村中共、故障無く一同相済大慶候、
同二〇日福島方、尾州方共御出立蘭村え御入込に相成申候、
右にみる今回の「背伐り御吟味奉行」の回村は、先天保一一年一一月から同一二年の春にかけて福島役所材木方が村々を回り背伐り調査をした際徴した「口書」に基づいて、尾州方役人が福島役所役人の立合の元に再確認するための回村であったと思われる。一九日の記事の中に「当宿村中共故障なく相済一同大慶候」と記しているのは、このときには「口書調印」で済んだのでこのように安心して喜んだと思われるが、これで解決したのではなかったようである。山口・馬籠村とも「口書」の控文書が見当らないので、背伐りの内容がわからないが、後々までたびたび取調べは続いていたようである。
それから五年後の嘉永元年の大黒屋日記五月二八日の条に、次のように記してある。
福島御役所より剪紙を以て、役人残らず当月晦日四ツ時御呼出これあり候、右御用の儀は、先達尾州表より御役人御回村御調これあり候背伐り一条の儀と存じ奉り候、
吉左衛門儀は、この度相除き外五人の内三右衛門儀は当番に相成り候に付御断り、源十郎儀は病気に付同断、李助・源右衛門両人、明二八日出立にて罷り出申候、拙者儀は文七当節出張にて罷りあり候間名代にて相勤申候、外宿村一同御呼出と承り申候六月一二日福島御役所御剪紙至来、一四日四ツ時御用御呼出に付出勤、名前吉左衛門、三右衛門、源十郎、兵右衛門、組頭弥八・久助
同一三日朝出立
同一四日御用の儀は、先年丑年(天保一二)御調御吟味これあり候背伐り一件、此度にて御免仰せ付られ相済申候、
同一五日、一六日福島宿御留、一七日昼出立、一八日暮合に帰村いたし候、
委細出勤中書留、御用書留帳にこれあり候、日記書留これなく候、
右の一四日の記事が示すように、天保一二年以来取調の背伐り一件は、五年後の嘉永元年六月一四日をもって落着した。この背伐りは木曽の下村だけでなくもっと広く関与していたのではないかと思われるが、この日記にみる呼出し記録のみでは、事件の内容はわからない。右の一五・一六日の末尾に、「委細」は「出勤中の書留」、「御用書留帳」にあると記してあるが、見当たらないのが残念である。
(註) 大黒屋大脇氏御用留帳は、昭和七年一二月一五日尾張徳川家蓬左文庫に収納され、その後東京都徳川林政史研究所の所蔵になっているが、そのうち第三のみがわかっている。
大黒屋日記天保一四年五月一七日以降の条に、あら町諏訪神社の森において椹と、鳥居材の檜の背伐りの二件が発覚し、福島役所材木方の取調べがあったことが、次のように記されている。
一七日、御材木方加藤廉助殿、千村桂三郎殿、宮木御改御見合に御出成され候に付、峠熊野神社え島崎氏(庄屋)御出迎それより氏神(諏訪社)え御案内致候処、一昨年建立仕候鳥居背伐り株御改にて御吟味に相成り、一言の申訳これなく候、なおまた一昨年寺社方にて御改御座候椹根返り御見分の処、是も板子并桶子にとり祢宜屋に囲置これあり候、御尋に付右の段有体に申上候、仍て御手間取り当宿に御泊り遊ばされ候、
一八日、右の通り椹の儀は御改めに相成り、役人中へ御預け成され候、
檜鳥居背伐りは御書付に成され、御引取に相成り申候、福島御役所えも御達申さず候、
末々へ相済み難く訳に相成り、役人急ぎ出張致すべく申し合せ致置候、重々不調法の段一言の申し訳これなく候、仲間中も縮み入り、この後何に寄らず内証事致し申すまじく由、なおまた申し合せ候、
同一九日、氏神背伐り株改めに、仲満参り候、
七月二六日、福島役所より背伐り一条御吟味に付、祢宜御相談庄屋添え役人壱人御呼の候処、病気申し立、組頭平兵衛日延御願達に罷り出申し候、
右のように記しているが、その後この一件がどのように落着したのか、わからない。
また大黒屋日記弘化元年三月二九日、尾張藩勘定所より差紙をもって、妻籠下り谷橋普請の際背伐り一件があったとして次の者が呼び出された。妻籠村宿役人六人・下り谷伊三郎・大工三作・馬籠宿桶屋新七・組頭久助・三留野大工利七・木挽和七・福島八沢傅之丞計一三人である。
四月 二日馬籠宿では呼び出された者新七・久助に付添い人治兵衛の三人が中津川泊りにて出立した。
同 五日福島役所からは、上田武助様、吉村治郎左衛門殿、桑原勝蔵殿三人が呼出され出立した。
同 二四日尾州出府中の治兵衛より手紙がきた。
五月一二日右尾州方に呼び出されていた妻籠宿、馬籠宿、三留野宿の者、付添役人とも帰村した。
そして同日記翌弘化二年一月二六日の条に「背伐り一件に付又候、久助福島役所より御剪紙にて御呼出になり出勤致候」とある。この事件は昨年下り谷橋普請の際に檜を無断にて伐採したというものである。また馬籠宿の久助が呼出されたことについては、馬籠宿の者も関与していたのではないかとの疑がかけられていた。同日記は右の久助が再び呼び出されたことにより、次のように記している。「それについて当宿にも御疑これあり候に付、いずれ家さがしの評判これあり、よって入用の品それぞれ囲置候得共、檜板十七枚程東屋平蔵方水もりに相用度候に付、平蔵方え遣候」と記している。檜類端切れ木など藁の中や、天井裏、土中に埋めて隠していたと伝え話があるが、大黒屋日記が「いずれ家捜しの評判あり」と記している様子から察すると、口碑は事実であり、檜類の取締りの厳しかった様子がわかる。そして同二月晦日の記事に「先達下り谷檜材背伐り候て組頭久助、弥平、新七共呼出に相成り、又々右一条御用に付、上松御陣屋より谷中三十三ヵ村庄屋中御呼出に付、島崎吉左衛門出勤」とある。しかしこの一件がどのように落着したのか、不明である。