嘉永二年の事件

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嘉永二年外垣役用入用帳、および同年大黒屋日記拾番に、同時期に両村の多数の村民が「背一件」に問われて罰せられている。この帳の記事だけでは、「背の一件」が何であったか確かなことは、役所の調書等が見当たらないので知ることが出来ないが、馬籠村で一〇二人、山口村七五人におよぶ多人数が同時に処罰されたということは、大事件であったことには違いない。
 外垣役用入用帳、大黒屋日記の記事を掲げてみていくことにする。
嘉永二年外垣役用入用帳正月一九日、福島役所より回状湯舟沢村より受取。
 背伐り御糺方のため中山長右衛門殿初め上下拾四人、来る廿三日出立、上松宿より手始取斗筈、止宿・宿休等の儀は、泊の宿より特触候間此旨相心得、早々順達村下に調印出張先え差出すべく者也
大黒屋日記同月晦日
 福島御役人御家老中山長右衛門様、御役所白州新五左衛門様、御用人三村逸作様、御書役原源作殿外、足軽野口直九郎殿始め四人、朝五ツ時御入込、夫より村中の者御呼出、その科(とが)により縄手鎖(ぢょう)にて役人中へ御預に相成申候尤老年七十歳以上手鎖御免、死失の者は御叱り迄に御憐愍下され置候、
 九ツ時より御調に取懸り八ツ時相済、尤本陣中え小前一同罷り出御征事これあり候、峠村の者は組頭久助へ御預け、阿ら町中の萓の者は、中の萱弥兵衛方え御預け、町内の者六十一人は役人六軒へ御預り申候、私方は治兵衛・周蔵・平蔵・仙蔵・助三・久治・弥助・久作・喜助・平三郎〆拾人、
 御役人様方八ツ時御出立湯舟沢村へ御越遊ばされ候、翌日山口村え御越遊ばされ候、
福島役所背方糺方役人は山村家老中山長右衛門以下一四名で、午前一〇時に到着、それより村中の者を本陣の庭に呼び出した。正午から取調べが始まり午後二時に終った。七〇歳以上の老人は手鎖が免除され、死亡者・村から欠落していた者はお叱りにとどまった。それぞれ科により縄手鎖が科せられ、次のように宿村役人に預けられた。
 庄屋・問屋島崎吉左衛門、問屋原三右衛門、町年寄 蜂谷源十郎、同大脇兵右衛門、同蜂谷李助、同蜂谷源右衛門ら六名に町の者六一人お預け、
 峠組頭久助に峠の者全部お預け、
 中の萱組頭弥兵衛に、阿ら町、中の萱の者全部お預け、

大黒屋日記、嘉永2年正月晦日の記事

大黒屋日記二月朔日の記事
 同夜役人・組頭にて、この度御叱の者早行御免下され置候様にと、太田屋勘右衛門宅にて御日待相勤申候、科人の者宿預け百弍人え御札壱枚つつ配当いたし申候、
これにみると今回宿預けとなった者は、全部で一〇二人であったことがわかる。
 外垣役用入用帳に、二月八日付福島役所から次の回状がある。
 回状を以って申入候、然は頃日御叱込相成居候者共締り方の儀兼て申渡置候通り、銘々預かり候者共においても急度締り方取計い候は勿論の事に候得共、見廻り方の者付ず指出候事に付、万一不都合の儀これあり候ては、急度御糺仰せ付らるべく候に付、兼て相心得置申すべく候、
 江戸時代の手鎖の刑は、庶民のみに科した刑罰の一種で「てぐさり」ともいった。手鎖は鉄製瓢型の金具であって両手を前に組ませてこれをはめ、小穴に鍵をかけ紙で封印する。手鎖は「過怠手鎖」と「吟味中手鎖」がある。過怠手鎖は過料に代え入牢させ牢内で執行するものと、自宅・親類などの私宅、宿・村預りのうえ手鎖を付着謹慎させるものがある。罪の軽重によって、一定期間手鎖が施されるもので、三〇日・五〇日・一〇〇日などがあった。手鎖は五〇日では五日目ごとに、一〇〇日では隔日ごとに錠改という定期検査が行われた。「木曽山御仕置定」では手鎖は一五日・三〇日であった。牢内ではその監守人が改め、町預など牢外以外の所では監視役の町役人が行った。
 外垣役用入用帳に二月八日付の回状があり、手鎖中の者の締り方について次のように達してある。
 回状を以って申入候、然ば頃日御叱込相成居候者共締り方の儀、兼ねて申渡置候通り銘々預り候者共においても急度締方取計候は勿論の事に候得共、見廻り方の者付ず指出候事に付、万一不都合の儀これあり候ては、急度御糺仰せ付られ候間兼て相心得置申すべく候
 手鎖中の者の監視は、預り人において監視するのは当然のことではあるが、見回り方の者を任命せず預けたので不都合のないように見回り監視するよう申し渡している。これをうけて町役人は、中の萱・峠の手鎖中の者の見回りを行った。大黒屋日記は次のように記している。
 二月十日、中の萱弥兵衛宅え御預り御叱り者締り方見届けに、役人中参り申候、島崎吉左衛門、李助、拙者三人、
 二月十一日、峠村え御叱りの者締り方見届に罷り出申候、吉左衛門、兵右衛門、源右衛門、小前の者宅利右衛門宅、八蔵宅両家に畏り居り申候、
 二月二〇日、手鎖中の者全員が釈放された。大黒屋日記の記事
 福島御役所より先達御叱りの者、御免仰せ付られ候に付、御役人中蘭村御泊にて当宿え四ツ時御入込候、小倉四郎右衛門殿、古坂文四郎殿、加村権八郎殿三人御出張、御叱りの者残らず手鎖御免仰せ付られ候、
一月晦日に刑の申渡があり二月二〇日に解かれたから「手鎖二〇日」の刑であったことがわかる。弘化二年の「木曽山御仕置定」によると、「一盗伐・背伐りの義は存ぜずとも、出所訂からざる御停止木品買取候者、手鎖十五日」の条がある。「御仕置定」のうちでは最も軽い罪状になっている。手鎖二〇日の刑であったが、この条に準じての「御叱り」であったように思われる。「御停止木品出所ただしからぬもの」所持ということであったようだ。所持の木品はすべて没収されることになっていた。
 そして刑期が無事解かれると、「御礼参り」という慣習的な作法があったようである。川柳に「両の手を出して大家(家主)へ礼に来る」と、長い間の不自由から開放された喜びを風刺したのであるが、「御礼参り」の一つであった。これを思わせる記事が大黒屋日記にある。
 二月廿六日、背伐り御叱りの節御免に相成り、右御礼に付いて宗門請帳差上げの節出勤、勝七・文七両人罷り出候、
右の記事は、宗門改帳は毎年二月七日に判を取り済ましていたが、本書は背伐り一件で御叱の者閉門中で延引し、二二日判取して二六日に提出のため福島に出張した。この時に、同道してお礼に出たというのである。