正月晦日 背類為御糺方御家老中山長右衛門様、御用達所白州新五左衛門様、御用人三村逸作様、御書役原源作殿、御用達所下役野口保七右衛門殿外に御足軽壱人、御同心四人、御供方三人都合拾三人馬籠宿え御入込に付、昼頃より御伺に三左衛門、組頭幸兵衛供に作蔵を召連れ参り候処、馬籠は御糺仕舞に相成候処え参り、本陣にて御伺申上候処、名前書御渡しに相成、残らず明朔日五ツ迄に差掲置候様御切紙を被仰付、幸兵衛を半時に帰す。右の御衆中様は直に湯舟沢え御出に相成申候、自分儀は暮合に家に帰る。
仁左衛門上村より引取の節、拙宅え立寄り相噺候は去日御叱方の儀に付夫の取調書付持参仕候、御請書御認置申候様申聞候、仍て其晩親果当時伜の分、并に絶家・長病の者、七拾歳以上の者書付認め置く、
右の記事によると正月晦日は福島役所山村家老中山長右衛門以下一三名の役人が馬籠宿「背儀糺方」のためお入込になった。挨拶に本陣に伺ったところ、お糺方が終ったところであった。お叱りの者のうち、七〇歳以上の者、死亡者、絶家となっている者、長病の者は免除されることになり名前書を渡された。これらの者の請書を作製して明朔日五ツ時までに差し上げるようにせよとのことであった。
二月朔日天気、日陰坂迄平左衛門殿御出迎に参る。組頭は実助也、自分并に組頭源十・幸蔵・兼太郎志水沢迄御出迎に参り候処、五ツ半頃当村御着、夫より死失・長病・絶家の者書付取調、原源作殿え差出御叱の儀は九ツ頃より初る、組頭の分は役儀御取り上げ縄付にて両庄屋え御預り、小前背伐り致候者は、御白州にて縄付両庄屋え御預、尤小割書名前書等は別に認め控置、両人相談の上斯程の多人数を預り候ては、甚迷惑致候間組頭兼太郎・銀蔵・久助えも御預けに相成る様、御願申上奉り候様、願の通り仰せ付られ、両庄屋にて三拾人つつ、跡残らず組頭三人にて割合預候、尤預りの小割書にて両庄屋・組頭三人の調印にて一札差上申候、其晩山口泊り
二日雨降り田立村え御越、自分船場迄御見送りに参る、
嘉永2年6月背伐り一件処罰さる
(大黒屋日記10番より)
右の記事だけでは先の馬籠宿の場合と同様事件の詳細は解りかねるが、「背伐りしたる者は白州で縄付両庄屋へお預け」と記しているから、背伐りした者もあったことはわかる。小割書、名前等は別紙に控置とあるが、それが見当たらないので刑の名目・刑の種類などはわからないが、両庄屋に三〇人ずつ預り、その余は組頭三人に割振って預けられたと記しているから、七〇数人に上っていたと思われる。
今回の「背一件」の処罰を受けた者は、馬籠村では総戸数一六〇軒中一〇二人(約六〇パーセント)、山口村では一七〇軒中数十人は約五〇パーセントに当たる。
山口村嘉永2年背伐り糺方留書 外垣役用入用帳
享保の改革以来停止木の取締りについて種々の法度の発せられるたびごとに、村中連署連判して請書を提出しており、許可なき停止木の所持は罪になることを熟知していた筈である。それにも拘わらずこのように多数の村民が罪を問われるような行為を起したのは、享保の改革以来約一〇〇年にわたり檜類の木品を入手することが出来なかったことにより桶材はじめ建具家具等の新調はもとより修理すらままならず、生活の不自由さに差詰り切羽詰まっての上の「背」であったと思える。
寛政年代ころから右のような状況による停止木の材木にならない節木・根返り木・材木採取後の末木などの払い下げについて幾度か繰り返し願書・歎願書が提出されているが、却下されている。裏木曽三ヵ村にはこの種の文書が幾通か残っている。いずれも生活上の用材にかかる切実な訴えであるが、許可にならず不自由な生活を強いられることになった。木曽の古文書の中には生活上の困苦から檜類の払い下げを訴えた歎願は見かけないが、背伐り等に関する文書はかなり目に付く。先にみてきた嘉永二年の一件など、村々の住民の多数がかかわっているのは、「停止木の檜類」に対する我慢の限界においての背一件であったとみられる。
右の取締りはこれより五年以前の弘化二年に「木曽山・裏木曽山の御仕置定」が制定されて間もない時期の取締りである。この取締りは、上松村より下村に回付された申渡し書によるもので、福島より上の村の様子はわからない。右の取締りが一月から二月にかけて一斉に行われたのは、どの村も多人数であり、農繁期や街道の交通の繁多な時期には刑を執行することが出来ないので、これらの時期を避けての処置であったと思われる。
享保後になると、明山内にての背伐りも一~二本と少量に限られるようになった。それに引き替えたように、大川狩中の盗木や小谷狩中の盗木が行われるようになった。寛保二年山口の綱場において多数の失木が生じていることがわかった。これまでの失木は錦織綱場において筏に組む際、時には二〇パーセントにも上ることがあったが、他領境を通過するのでその間の失木と思われていた。それが木曽地内で失木を生じたことに驚いた木曽材木奉行所は、木曽地内の川筋も、他領境と同様に監視をすることにし、川狩輸送中は足軽が鉄砲を持って見廻りするようになった。出所の確かでない停止木の端木の所持も禁止した。嘉永二年の木曽の村々の一斉摘発は、背伐りと共に盗木の詮議を兼ねた取締りで、他領境の川筋の村々に対する見せしめでもあったとみられる。