天保九年西の丸用材の献材

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天保九年三月一〇日早暁、江戸城西の丸台所付近より出火、裏門・多門の一角だけ残し殿舎残らず焼失した。当時西丸には一一代将軍家斉が、次男家慶に将軍職を譲った後移り住んでいたが、幕政の実権を握り大御所政治を行っていた。家斉は本丸に移り、直に西の丸殿舎の再建に取りかかった。三月一一日大老井伊掃部頭にお手伝いを命じたのを始め、加賀の前田・御三家以下諸大名にお手伝いを命じた。同一三日老中水野忠邦を西の丸御普請奉行に任じ、四月一日には作事奉行以下一一〇余人が任命された。その中に勘定吟味役川路三左衛門聖謨が「御普請御用」を仰せ付られた。当時幕府の猿江御材木蔵を始め江戸城内の貯木材のうちにも殿舎の「御座の間」や、大広間の柱に使用出来る良材はなかった。尾張藩主斉温が白鳥貯木場の切置材八万余本の献材を申し出た。この中に良材が得られなかった場合には、木曽のお囲い山の大材を提供することであった。このお囲い山は慶長以来斧を入れたことのない加子母出の小路山である。四月二二日川路以下四四名は熱田白鳥の貯木場に向かって出発、閏四月二日到着同二〇日まで連日連夜深更まで木数調をしたが、御用に立つ木は一万本に過ぎなかったので、木曽山の伐り出しを急ぐことにし、閏四月二一日熱田を出発、同二四日中津川宿に投宿した。あいにく木曽川の増水で瀬戸の渡しが舟止となり、五月三日まで八日間滞在した。同四日福岡泊り、五日付知泊り、六日に出の小路山に入った。山道険しくもも引・半てん姿で山を登った。この様子は彼の日記「濃役紀行」(徳川林政史研究所蔵)に詳しい。入山から江戸帰着までの日程は、右日記によると次のとおりである。
 五月七日~二一日   伐木作業巡視・督励
 同二三日       三浦山見分
 同二四日~六月一二日 出の小路山出発木曽山立木調査
 六月一三日      裏木曽川上山調査
 同 一四日      出の小路山に戻りこれまで滞在
 同 三〇日      出の小路山出発、中山道を江戸に向い七月一二日江戸屋敷帰着