献材は出の小路山だけでなく木曽山・裏木曽川上山の立木見分することになり福島役所の中山半助が幕府役人の付属を命ぜられ、湯舟沢山から見分をすることになった。
回状を以って申入候、然は、尾州より 御献木御伐出に付、木曽御山内立木見分ニ、公儀御勘定吟味役川路三左衛門殿、御勘定改役佐藤清五郎殿、吟味方下役村上愛助殿、御普請役井上覚右衛門殿方近日湯舟沢村御入込、それより蘭村、野尻宿入阿寺山、上松宿小川入、王滝村右五ヵ所見分これある筈、仍て別紙の通り村々人足割付申付候間、右の心得罷在日限指定の上は猶又申触候間、定場所へ庄屋壱人、組頭壱人相添ひ罷出、壱人も相違なく罷、継所より継所へ御荷物持送り申すべく候
戊五月廿日 中山半助判
人足御割符覚
湯舟沢寄
一人足三九人 与川村
一同 拾六人 柿其村
一同 五拾弐人 田立村
一同 五拾九人 山口村
一同 拾五人 妻籠宿在
一同 三拾人 三留野宿在
一同 弐拾四人 馬籠宿在
但馬六匹ニても宜敷
一同 拾五人 湯舟沢村
五月二一日福島役所から、公儀役人一行が湯舟沢山に入り込みの回状が通達された。
回状を持って申し入れ候、今般 公儀御勘定吟味役川路三左衛門様初め、木曽山々立木御見分のため、近々湯舟沢村え御入込の由、就ては中山半助付属仰せ付られ候間、同人差図次第村々割符人足差し出し継立方を初めその外御用筋御模通宜しく相勤べく候
五月二四日加子母山を発した幕府役人一行は苗木領瀬戸から木曽川を渡り落合村から湯舟沢村に入った。そして同二六日湯舟沢山の見分を終え、翌二七日蘭村広瀬に移動することになった。割当人足は二七日の夕方までに湯舟沢村に出て待機するよう中山半助から次の通達が出ている。
回状を以って申し入れ候、比日相触候 公役衆明後二七日湯舟沢村御出立、蘭村広瀬まで、御引移りに御座候間兼ねて割符申し付置候人足、二六日夕方湯舟沢村え罷り出で、二七日朝御出立の節広瀬まで、御荷物持送り申すべく候、
木曽山の立木見分は、予定のとおり六月一〇日までに終り、一二日野尻宿を出立裏木曽川上山に向かうことになった。野尻宿よりの人足割符が次のように出されている。
覚
一 人足拾人 野尻在郷
一同 六人 柿其村
一同 拾七人 与川村
一同 六人 三留野在郷
一同 七人 妻籠在郷
一同 拾人 湯舟沢村
一同 五人 山口村
馬六匹
但 馬の儀は山口村高札場ニ備置、馬籠より村継の分坂下まで継立申すべく候
一馬六匹 野尻・三留野・妻籠・馬籠右四ヶ宿継
右是は、明十一日夕までに野尻宿へ罷り出で、山口村橋場まで御荷物持送り申すべく候、右継馬六匹共宿々用意置くべく事
右は 公儀御役人方山々御見分済み、明後十二日御出立ニ御座候ニ付、右の通り割符申し付候、明十一日野尻宿へ罷り出、十二日朝御出立の節御荷物持送り申すべく候、申すに及ばず候得共、大切の御通行の儀に付、不調法慮外事これなく様堅く申し付候
戌六月十日 中山半助印
西の丸献材に対する木曽山の立木見分は六月一一日に終り、一行は川上山の見分に向かった。木曽の村々では坂下村庄屋宅まで荷物輸送をした。加子母出の小路山の献材伐木は六月三〇日に終り、一行は七月朔日出立、中山道を下り七月一二日に江戸表に帰着した。