天保九年の西の丸復興材の伐り出しは、同年から始まった天保の飢饉の直後であり、食糧事情は悪くその上五月には幕府諸国巡見使の通行があり、また四月から六月にかけて農繁期と重なり、裏木曽三ヵ村では多数の使役を割付けられ、田植が出来ず苗木領の近隣の人々を頼みようやくすましたが、一ケ月も遅れてしまったと庄屋記録にある。このような世情であったが、尾張藩主斉温は献材には積極的で、西の丸の復興が急を要するものであった。伐木が木曽山と決まったので藩庁では、木曽材木奉行所を始め伐木山会所等役所間の用状、荷物の継立が頻繁になる事が予想されるから、大切のご用に遅滞・延着などすることのないように村々に申渡すことを山村役所に通達した。これをうけて山村役所は村々に次の回状を達している。(外垣庄屋萬留帳)
回状を以って申し入れ候、然れば今般西の丸御普請に付御献木の内、加子母山より御伐出しに付、公辺御役人向御見分として、近日右山へ御入込の由、右に付木曽御材木奉行配下の面々御差向置かれ候、これに依って木曽谷中往来通用の御用状等御差立多く候処、年々御伐出御用等に付、谷中継立の御用状差立方遅着致候事ままこれある由に付いては、今般御用向若延着等の儀これあり候ては、御用向は簡欠候間木曽材木奉行御用状の儀の早行方格別入念継立方、遅滞に及ばず様、村々に申渡候様今般尾州より仰せ越候間、右の通り相心得遅滞これなくよう入念取計申すべく候、
これは伐木山会所、木曽材木奉行所、福島役所、尾張藩庁間のご用状が至急を要し七里飛脚で用が増加して、延着する様なことがあってはならないと、前もって念を押しているのである。これは西の丸復興を急いでおり、献材の輸送に支障を来すことがあってはならないということであった。このためにご用状や物資荷物の継立が、伐木山会所と役所の間を毎日多数往復した。川上村庄屋の「西の丸献材御用留綴」の記録文書に寝ている暇もないと記した文書が多数残っている。
これらの右の用事は、伐木山加子母出の小路山の伐木会所に詰める幕府役人・福島役所・木曽材木奉行所・名古屋藩庁の各役人が、それぞれの役所あてに連絡する文書の発送や、各役所の役人が伐木山会所に出入往来するたびごとに手荷物等の持運びがあり、役人の身分に応じて使役人数も異なっていた。伐木山会所にはこれらに備えて裏木曽三ヵ村の人足が毎日多数詰めていた。用事が発生すると会所詰の人足が直に加子母村庄屋宅に届け、順次付知村庄屋に届け、それから川上村庄屋に、川上村から山口村に届けた。山口村は名古屋藩庁行きは落合村へ、木曽役所向、江戸行きは馬籠村庄屋へと継立した。川上村庄屋に「天保九年江戸城西の丸献材に関する文書綴」と題した膨大な文書が残っている。この文書には「急」「飛切り急」などと朱書したものが多く、昼夜の区別なく継立をし、男の人足が足りず女人足で補充し勤めたと記している。川上庄屋文書に、川上村が継立した出向先の人数の書上げがあり、そのうちに山口村一四三一人と記している。参考までにこの集計表を掲げると第24表のとおりである。
(表)第24表 天保9年出小路山会所より継立人足表
(川上村庄屋文書)