山口村の使役負担

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加子母出の小路山で献材伐木督励していた川路三左衛門一行は、木曽山五ヵ所の立木見分のため、五月二七日落合から湯舟沢村に入った。二七日湯舟沢村山の調査を終えた一行は二八日蘭山に移動した。木曽山の見分に付、山口村は湯舟沢村~蘭村への移動と、木曽山見分が終り帰路野尻宿から坂下村までの移動道中の使役と、加子母山伐木終了して江戸に帰還する道中山口村から三留野に至る間の使役を勤めた。これを一覧表にすると次のとおりになる(日数が一、五日となっているのは出発前日の夕方までに宿に出て待機するため半日を加算しているからである)(外垣庄屋萬留帳より)。
(表)
 右の使役に対する手当の下付を次のように提出している。
 右は今般 御公用役様木曽谷中御山内御見分遊ばされ候節、人足御割付仰せ付られ、出役相勤申候処相違これなく候、然る処近年凶作打続き御百姓共、難渋至極に御座候に付、恐れ入り奉り候得共、御憐愍の御慈悲を以って御手当仰せ付け下され置候様、願上げ奉り候
     天保九年戌七月                        山口村庄屋両人
        御奉行所                           組頭四人
 加子母山で伐木督励中の公儀役人川路三左衛門ほか一行は、木曽山の立木見分に入り、その帰り山口村から川上山に入った。また加子母山の伐木を終えた一行は山口村から馬籠宿に出帰路についた。公儀役人一行が山口村を通行するというので、福島役所は山口村に、馬籠村境からきびうの舟渡し場までの道路の修理を命じた。幕府役人の往来するというので福島役所がいかに神経を使っていたかわかる。山口村庄屋から、これに要した人夫賃の支給を次のように提出している(外垣庄屋萬留帳)。これに要した人夫は四五五人で次のとおりである。
 一人夫百九拾五人 右は馬籠村境より山口日陰坂まで道法拾三町程、此の場所は山道にて至って悪敷、石堀抜き埋土等いたし、細道の所左右とも堀り取り、或は大石等片寄せ、并に橋掛替候分とも、此の如くご座候
 一同百拾人、右は日陰坂より寺沢まで、道法拾九町程石取り除き、并に埋土等いたし候分、此の如くにご座候
 一同百五拾人 右は寺沢より舟場まで道法拾八町程、右場所の内弐町程至って悪しくご座候に付、畳石相埋、その外前野通り手当方此の如くにご座候
 右は今般 御公役様御通行に付、馬籠境より此方舟場まで道橋繕并に掃除人夫共、斯の如く御座候処難渋の村方に存じ奉り候間、御手当下され置候様願上奉り候
     天保九年戌七月
                                   山口村庄屋両人
 また役人の通行に当り、日陰坂・舟場に小休憩所、湯舟沢山にも休憩所が設置され、山口村に建設人足が割当られ次のように勤めている。
      覚
 一日陰坂御小休場、弐ヶ所。この人夫弐拾人
 一舟場、御小休場、弐ヶ所、この人夫弐拾人
 一人足三拾人  当五月十九日湯舟沢村差出申候
 一同 三拾人   同月二十日右同行
 一同 弐拾五人  同 二十一日右同行
 右は今般御公役様谷中御山内立木御見分として御入込遊ばされ候節、御小休場取建并人夫御割付仰せ付られ、湯舟沢村へ罷り出で相勤申候処相違御座無く候
 難渋の百姓共に御座候間、御憐愍の御慈悲を以って御手当下され置候様願い上げ奉り候
      天保九年七月
 また山内案内の人夫、休息の際のお茶持、呉座敷物持の人夫も割付けられている。
       覚
 一人夫拾六人 六月十三日
 右は今度谷中御山内立木御見分として御公役様、御入込遊ばされ候に付、御案内枝払いの者、御茶持、縁(へり)取持、その外人夫此の如く御座候得共、下地困窮の村方に御座候間、御憐愍の御慈悲を以って御手当下され置候様、幾重も願上げ奉り候、
 右願上奉候通り御手当仰せ付なされ下され置候はゝ有難仕合に存じ奉り候
      天保九年七月                       山口村庄屋二人
     御奉行所                             組頭四人
 幕府役人の木曽山見分が終わり、馬籠で泊り翌一三日川上山に向かって出立、山口村外垣庄屋宅で昼食をした。昼食代実費は支給されることになっていた。一行の昼食代の請求書は次のようになっている。
 
       覚
 一川路三左衛門様上下拾九人  六月十三日御昼支度口数十九口
 一佐藤清五郎様 上下七人   六月十三日御昼支度口数七口
 一村上愛助様  上下弐人   六月十五日御昼支度口数二口
  〆口数弐拾八口
    此米 七升  壱口弐合五勺つゝ
    代 九百拾八文 (但一升代百三拾文)
 右は今般 御公役様御通行の節、御昼支度仰せ付られ、斯の如く御座候
 同御手当下され置候様願い上奉り候