天保一五年江戸城本丸用材献材

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天保一五年五月一〇日江戸城本丸殿舎が焼失した。「大黒屋日記七番」天保一五年五月一五日の条に「江戸御本丸御城当月十日御焼失の由承り申候処、追々噂これあり候、実説の事に候、驚奉り候」と記しており、火災から五日後に江戸の事件が馬籠宿に伝えられている。
 このときにも尾張藩は復興材を献上している。同年七月幕府は、御用材御用掛に勘定組頭向山源太夫以下三六名を任命した。向山源太夫ら一行は、七月一一日江戸を出立、東海道を上り、同二一日尾張熱田に到着し白鳥貯木場の材木を検分して、尾張藩と伐木山の打合せをし、同二三日に出立し木曽に向かった。これに先立って尾張藩は、福島の山村役所に幕府役人に附属して山内木種見分の案内業務を命じた。福島役所から宮地源左衛門・川北新助が尾州表に出向いて打合せに参加した。復興材の伐木搬出は緊急を要することであったから、前回の西の丸用材の例にならい、粗漏のない様に並々ならぬ配慮をした。幕府役人が木種見分に木曽山・裏木曽山のいずれが、先になってもよいように二通の日程を準備して宿の先触を回していた。大黒屋日記七月二〇日の条「江戸御役人様方御焼失に付、木曽谷中へ木材御元伐り御見分に御出遊ばされ候に付、宮地源左衛門様・川北新助殿尾州へ御越成され候、尤二四日山口村へ江戸衆、尾州方とも御入込の様子に承知仕候」と記している。これが裏木曽山入込みの先触であるが、この径路は実行されず七月二四日別の木曽山入込の先触が馬籠宿に到着している。
 同日記七月二四日の記事に「三村逸作様并附添御役人中御同勢廿弐人当宿御詰合御逗留、上松陣屋迄御付添成され候、宮地源左衛門様尾州より御引取当宿御泊り、右同様御付添の趣。」とあり、福島役所の御用人三村逸作以下二二人の同勢が木曽の入口馬籠宿まで出向いて、幕府役人一行を出迎えるため待機し、尾州より帰った宮地源左衛門も一緒に馬籠宿に泊ったと記している。そして同日の条に次の幕府役人の道中先触が挿入記入してある。
 江戸御役人様方、廿六日中津川御泊り、廿七日妻籠御昼にて、野尻宿御泊りに相成る御触面至来いたし候
そして同日記二七日の記事に「御公役様五ツ時御通行遊ばされ候処、当宿には御小休等もなく、直に御継立申候、御故障これなく首尾能く相済申候」とあって、二七日に木曽入りしたことがわかる。
 天保一五年七月本丸復興材木種見分に派遣された幕府役人一行は、次のとおりで供を含め総勢三六名であった。
(表)
 宿場でない湯舟沢・柿其村など村方に、幕府の役人が宿泊するについて、今回は幕府役人用宿五軒、藩役人用に五軒以上を必要とし風呂・便所の修理、刀掛、夜具、その他調度品に至るまで隣村から借り集め準備しなければならなかった。
 幕府役人の送り迎え、宿の役割は次のとおりであった。
   役割覚
 前宿え伺ひ出る事
  御境御案内
   旅出立羽織着 拾六人
  宿口出迎え
   上下着     六人
   袴羽織着    拾人
  遠見人足三人懸り
 御宿 亭主上下着御案内仕候事
 御境迄
  迎え、ほうき持 八人
 御用物持送り
  人足三百七拾人備
 露払 上下六人
 同断 平 弐拾四人
 御宿札 長弐尺五寸・巾六寸

[図]

  竹壱丈・元芝土手
 御宿用意
  御公役様三六人ハ魚の店(註1)ニ而仕出
 尾州方拾弐拾八人ハ其宿村支度用
      意
 御鉄砲(註2)弐丁 六匁 狩人弐人
註1 魚の店 名古屋の仕出し屋。
註2 宿の警護に村民が徹夜で当った。
 尾張藩派遣の随行役人は、勘定所吟味役頭取織田郷右衛門、勘定支配組頭矢野大作、木曽材木奉行深津理兵衛以下総勢一二八名に上っている。木曽材木奉行所付の三ヵ村山守内木彦七が、三ヵ村庄屋にあてた書状には、幕府役人の道中証文人足二〇〇人、尾張藩役人用一〇〇人必要と述べている。また三ヵ村庄屋文書にも、宿詰ともに諸入用人足は七〇〇人詰めていないと勤まらないと記している。また天保十二年の通行留(大黒屋記)にも「右之木曽御割符人足三百人備、湯舟沢より野尻通し」と記している。柿其山・妻籠山の道作りを湯舟沢村と山口村が三日勤めたとしている。
 この本丸御用材の木曽山からの出材は檜材で、次のとおりであったと「大黒屋用留」に記してある。
 一[長三間半 末口尺六七寸] 二百本餘
 一[長四間 四寸角] 壱万本