天保九年再建した西の丸殿舎が、一四年後の嘉永五年五月二二日の朝五ツ時ころに、残らず焼失した。「大黒屋日記嘉永五年拾三番」に次のように記している。
六月二日 五月二一日夜四ツ時(后一〇時)出火にて、西の丸御館二二日朝五ツ時残らず焼失に相成候由承る。依て俄に木曽山御材木御伐り出相始まり候趣、妻籠村杯惣山尾州より見分これあり候
尾張藩はこの再建材を献材し、木曽山、付知山から伐り出した。右の大黒屋日記の記事にみるように、五月二二日の焼失より一〇日後の六月二日の記事に「俄に木曽御材木御伐り出相始まり候由」と述べているように、復興材の伐り出しは、電撃的な早さで着手されたようである。裏木曽川上村庄屋文書中にも「当年子年木曽并付知山より木材俄に御伐り出有候由、既に此節木曽方御役人様方繁々御通行遊ばされ、殊に格別御急の御仕出の趣に承り、左候へば遠からず内御役人様方も御入遊ばされ、引続き塩噌并に諸色等御差送りに相成べく義と存じ奉り候」と、近日中に食糧物資の輸送や用状の継立が始まると懸念の様子を述べている。
この献材に関する文書は、先の大黒屋日記の記事と、同年八月川上村使役免除歎願書のほかは見当らず、詳しいことはわからない。