安政六年一〇月一七日江戸城本丸殿舎が焼失した。「大黒屋日記弐拾番」は、次のように記している。
一一月一六日 御本丸焼に付、男埵山より椹類残らず御元伐りに付、当村に於も出日用御用仰せ付られ候に付、妻籠宿御出張御山奉御奉行様へ御断りに罷出候、出勤茂太夫、源右衛門
本丸復興用材に男埵山(おたるやま)の椹残らず伐出すことになり、搬出について村方から人足を出すように申し付けられたが、問屋原茂太夫と町年寄蜂谷源右衛門両名が断りに出たということである。
このたびの復興材に大材の良材は木曽・裏木曽山に求められたが、再建を急ぐ余り搬出の容易な里近くの山麓や寺社の境内・道路傍の立木の中から檜長さ三間半、末口二尺の無節材を探すことにし、村々に次の通達をした。
御本丸御普請に付、檜大材長さ三間半、末口弐尺程の分御入用に候間、近内木種見分罷越べく候付ては、右大材の分、何れの谷々に生立居候との訳、篤と吟味致拙者共入込節案内等の儀、差支無く様取計致置くべく、右は格別御急の儀に候間御模通申入候
二月廿九日 吉田弥太郎
野口暫八郎
馬籠・三留野・妻籠・田立・山口、右村庄屋中
右の調査に基づいて木曽では一八村が神社境内に該当する檜の大材があると報告し、見分を受けたようである。「県史資料編木曽三四〇安政七年二月谷中宿村社殿修復木払下願」のうちに、このたびの見分をうけたことを記している。山口村では次のように回答している。(安政七年外垣萬留帳)
乍恐奉達口上覚
一先般御見分相成候寺社境内に生立居候檜、今般御本丸御用材に御買上奉るべく相成哉に付、村方差支等これなき哉の境取調御達申上奉る様、仰せ付られ候に付、村中吟味仕り候処、村方においては差支之筋毛頭御座無く候尤御材木役所には村方より御達申上奉べく候間、恐れ乍ら御役所様に御打合下され候様願上奉り候
このたびの江戸城復興用材の檜の大材は、木曽・裏木曽の神社境内から伐り出され、七月二一日までに柱材に造材された。裏木曽三ヵ村からは四七本長さ二丈四尺~二丈七尺、八寸~九寸七分角とし、こも包に荷造して、陸路を山口村まで運び、それより木曽の村方が継立して贅川宿まで輸送した。これまでが尾張藩の受持であった。この伐り出しは松本在神林村野口庄三郎が請負った。
この様子を川上村庄屋文書に次のように述べている。
当六月加子母村・付知村より御本丸御用御柱材等、急ぎ御用の御仕出しにて、木元村より中山道馬籠宿迄、陸路持出仰せ付られ、別而御太切の御荷物に付、御役人様御付添莚包にて御渡し相成り、少したりとも疵付けず様請渡し申す旨、別而仰せ渡しもこれあり、暫時の遅申すも相成り難く手渡しの継立にて、昼夜の差別なく御継立仕候得共、何分長木目重の荷物(後略)
と記している。長尺で重量があるから峠では道が曲りくねって難儀であったといっている。これらの村は、寸法により目方はまちまちであり、七〇貫(約二六二キログラム)~一三四貫(約五〇二キログラム)位あった。その中に二本特別の良材があり、目方二〇三貫(約七六一キログラム)で四〇人持ちであったが、人足交代しても息切れし難儀したと述べている。この運搬は野口庄三郎の請負いであったから賃銀は相対賃銭で、一人持重量を五貫目とし一里に付七二文とした。一本の荷物は一四~四〇人持で運んだ。三ヵ村の継立は山口村高札場までで山口村に交代した。これに要した三ヵ村の人足数は二七七一人であった。